浮気なんて出来る人じゃないことは百も承知。 それでも心配なのは愛しているから想ってるから。 そんな貴方だから「ねぇ、一成さん」 「―――うん?」 「朱美さんって誰ですか?」 「――――――ううん?」 場所は京極堂、時は夕刻。 約束も無いのに見覚えのある面々が揃いも揃って京極堂の細君の淹れた茶を啜っている。 榎木津が寝ているおかげで関口と鳥口が喋っている以外は静かである。 古本屋主人はいつも通り不機嫌そうに本を読み、伊佐間とは縁側でのんびりと庭を眺めていた。 「朱美さんって誰ですか?」 ううん、と曖昧な返事をした伊佐間にもう一度聞く。 それは先ほど榎木津から聞いた見知らぬ女性の名。 この前と鳥口を置いて揃いも揃って出かけた折に出会った女性だというけれど。 「ううん、と」 伊佐間は困ったように首を傾げた。 その仕草はいつもなら可愛いと思う所だけれど、今日ばかりはそうもいかない。 煮え切らない態度に苛々する。これはもしや榎さんから聞いた事は本当なのだろうか? ―――――朱美ちゃんと河童が仲良く鍋をつついてるぞ。 河童というのは時々榎木津が伊佐間を呼ぶ時に使う単語である。 決して愛称などとは思わない。関口に対しての猿というのも同様である。 自分の惚れている男を河童などと言われるのは大変不本意だが、榎木津相手に文句を言えるはずも無く。 まぁ今はそんな事はどうでもいいことであって問題は朱美である。 「誰、です」 その時傍にいた鳥口が「うへぇ」と言った事をと伊佐間は知らない。 いつの間にか二人は会話を止め、一見修羅場とも言えるような会話に聞き入っている。 鳥口は事件の概要について大体聞き知っている。 が、余計な心配を掛ける必要は無いとの京極堂の発言でには事件の事は伏せられていた。 つまりが入手した情報は朱美という女性が伊佐間と仲良く鍋をしていたという情報のみであり、女性にかなり縁のないと思われる伊佐間の恋人としてはそれは浮気とも言える様な状況なのである。 伊佐間は依然首を傾げて悩んでいる。 伊佐間にすれば事件に触れずいかにうまく説明するかを悩んでいるのだが、にはその様子はどう誤魔化そうかと考えているようにしか見えない。 ただの旧友か知り合いだとでも言えば済むだろうに、嘘を付くという発想すら思い浮かばない伊佐間はかなり人生損をしているのではないかと、その様子を見ながら関口は思った。 口八丁な友人は現在読書に夢中でこちらの様子に全く気付いていない。 気付いているのかもしれないが、どちらにしろ我関せず、だろう。 口下手な自分が出てもどうにもならぬだろうし、鳥口はその場にいなかったのだからしゃしゃり出てもあまり意味はない。 幸い榎木津は熟睡している。もしかしたらこのままそ知らぬ振りして退席した方がいいのかもしれない、と関口は鳥口を見た。 野次馬な鳥口も痴話喧嘩はさすがに御免なようで、やはり関口と同じ面持ちで帰るタイミングを窺っている。 「言えないんですか」 やがて二人の耳に悲しそうなの言葉が聞こえた。 違うんだよ、と伊佐間は言うがこの場では説得力のある言葉ではない。 そもそもこののんびりとしたそれこそ熟年夫婦のような二人の喧嘩など見たことがない。 伊佐間は間違っても大声で怒鳴るような気質ではないし、もヒステリーを起こすような人柄ではない。 良くも悪くも似た者同士である二人だからこそ―――こうして長く一緒に居る事出来るのだと関口は思う。 「うへぇ。どうすんですか、先生」 「うーん・・・僕に言われてもなぁ・・・・」 横目で友人を見ると、やはり本から顔を上げる様子は無い。 地獄耳の男がこの雰囲気に気付いていないはずはないのであって、やはり口を出すつもりはないらしい。 薄情だとは思いつつも、やはり夫婦喧嘩は犬も食わないのであって―――所詮他人の口出し無用である。 何処か自分に似た所のある不器用な友人を気の毒に思いながら、関口は残りの茶を飲み干した。 「はっきり言って下さい」 長い沈黙の後、彼女らしからぬ怒声とも思える声が居間に響いた。 決して疚しい事など無いはずなのだが、伊佐間の態度では誤解されても仕方が無い。 と言えば最初は些細な疑問だったのだが、今では疑惑に変わりつつある。 「ううんとね・・・朱美さんの亡くなったご主人がね・・・僕に似てて・・・・」 (それは逆効果っすよ!!) その瞬間、確かに関口には顔面蒼白状態鳥口の心の声が聞こえた。 全く以って同感であり、いくら自分でもこんな失敗はしないだろうと思う。 どう考えても説明する順番を間違えている。 確かに伊佐間からすると、それがきっかけで朱美さんと出会った訳だしそれが真実なのだろうが、本当の事を言えば善いというものじゃない。 それほど世間は甘くなく、女心は複雑なのである。 鳥口は声にならない声で「師匠ーー!」と助けを求めているが、面倒事の嫌いな友人が腰を上げないだろう事を関口はよく知っている。 「だから、なんです」 「うーーん、それで風邪を引いてね、介抱して貰って・・・・」 もはや取り繕う間もない。 伊佐間は事実を順序立てて説明しているつもりであろうが、仔細を知らぬ者が聞けばどう考えても浮気の言い訳にしか聞こえない。 この状況で何もなかったと言われて信じる女性が果たしているのだろうか。 「もういいです」 案の定乾いた声がしたと思うとが縁側から立ち上がり、こちらに家の主人に向かって「お邪魔しました」と一礼した。 主人はしばし本から視線を外し、頷く。 そして関口と鳥口にそれぞれ会釈をし、さっさと玄関へ向かってしまった。 残ったのは情けない顔をした三人の男と寝ている男、憮然と構えた家の主人である。 「伊佐間君、何をしてるんだい。さっさと追いかけたらどうだ」 やはり聞こえていたのだ。口を出せばもっと早く出せばいいものを。 横で鳥口がそうですよ!と大袈裟にジェスチャーで玄関を示す。 伊佐間は情けない声でまた、ううん、と唸った。 関口はどうすることも出来ず、ただ伊佐間を見つめていた。 やがて意を決したのか、伊佐間が「じゃあ、失礼するよ」と立ち上がった。 主人は猫の子でも追い払うように「さっさと行きたまえ」と顰め面で手を振る。 伊佐間が帰って寝ている榎木津が起きると、関口は鳥口と榎木津を伴って京極堂を後にした。 その後の二人がどうなったのかを知る術はなく、家に着いた頃にはすっかり忘れていた。 「うへぇ。先生、二人がどうなったか教えて下さいよ!」 |