彼女と喧嘩らしい喧嘩をしたのは初めてじゃなかろうかと、





怒った顔を見つめながら伊佐間は思った。





















二人の馴れ初めは簡単だった。

友人である中禅寺の妹の敦子からたまたま京極堂に行った時に同僚だと紹介されたのだ。

敦子と同い年であるというその女性はスーツがとても似合っていて毅然とし、何処か近寄り難いように思えた。

けれど話してみると意外に気さくで何より笑顔が可愛らしい。

少女のようにはにかみ、笑うとちょこんと頬にえくぼが出来る様がなんとも言えない。

彼女の父親が釣りが好きだという事もあり、それから幾度か顔を合わせる度に伊佐間は自分の中の想いを自覚していった。






ただ年が離れていることや彼女に比べて自分の風貌があまりに釣り合わない、ということもあり、特にアプローチらしきものはしなかった。

伊佐間にとって彼女への想いはそれこそ女優に恋するようなものであり、告げる気など毛頭無かったのだ。

彼女からの告白がなければ今でも人の良い釣り堀屋の主人という枠に収まっていたことだろう。







そしてその彼女と云えば今、伊佐間の腕の中にすっぽりと収まっている。

これは一週間無視され続けてようやく呼び出しが成功した結果であり、何も言わずに狭い店の中で座っている彼女をなんとかして宥めようとした成果である。

だが自分でも愚かだと思うのはここから先どうしたらいいのかわからないことである。

子供を抱えるように背を伊佐間の胸に預けて座るの体温は暖かい。

が、態度はひどく冷たかった。この体勢では顔が見えないから余計そう感じるのかもしれない。



朱美との関係は伊佐間の知らぬ所で友人達が弁解してくれたらしいのだが―――どうにもの機嫌は直ってはくれないのだ。







ちゃん・・・・悪かったよ。うまく説明出来なくて・・・・」

「別に。伊佐間さんが何処で何をしようと勝手ですから」

「ううん、だけど・・・・・」






呼び方が「伊佐間さん」に戻っている事に伊佐間は溜息を付いた。

付き合ってからは「一成さん」と下の名で呼ばれていた。

最初はなんともくすぐったかったが、今では姓で呼ばれる方が違和感を感じる。







「どうすれば機嫌直してくれるんだい?」






出来ればこんなことは聞きたくなかったけれど―――今となっては仕方が無い。

自分にだって男としての自尊心は無論有る。

が、彼女を失ってまで守るものなど何も無い。

今まで腰から腹に回していた右手で彼女の髪を撫でると、くるりと頭が回転した。







「別に、朱美さんの事を怒ってるわけじゃないんです」






じぃ、と伊佐間の目を見つめてそう言う彼女はひどく幼く見えた。

そのまま伊佐間の胸に頭を預けて、彼女が呟く。







「ただ、私の知らない所で危ない目に遭ってるなんて・・・・」






友人達がなんと朱美の事をなんと説明したのか伊佐間は聞いていなかったが――――どうやらは事件の事を知っているらしい。

確かにそこまで言わなければ納得して貰えなかったとは思うが、要らぬ心配をさせてしまったのかと思うと胸が痛んだ。






「うん、ごめんね」







なんと言ったら良いか分からず、結局出たのは謝罪の言葉だった。

俯いているの頬に手を当てて―――額にちょん、と口付ける。



そしてが顔を上げた瞬間、伊佐間にしては珍しく強引に唇を押し当てた。





「かず―――」





最後まで呼ばれることのなかった自分の名ごとの唾液を飲み込む。

開いた唇の中に蠢く小さな舌を吸い取って強く抱きしめる。

こうして彼女を求めるのはひどく久しぶりだった。




は戸惑いがちに身をよじったが、やがて伊佐間の首に手を回しそれに答えた。

決して情熱的ではないが、穏やかに緩やかに伊佐間はの唇を味わう。








「ごめんね」








唇を離して、もう一度そう言った。

もういいです、と赤い顔で彼女が言う。







目が合ってふっと笑って。

どちらともなく口付けて。

やがて床に沈んだ時には日はもうすっかり暮れていて。










気の利いた愛の言葉を囁くなんて事出来ないけれど。









「一成・・・さん・・・」








こうして手を伸ばして彼女の体温を感じて、熱を与え合って。

笑い合える事の素晴らしさを噛み締めて。









神さんだか仏さんだかに感謝したい気持ちでいっぱいになった。
















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本当は一柳さん(朱美さんの旦那さん)もいたと思う。