それはまるで死人のように見えた。













沈丁花怪奇談











榎木津以外の誰もが一瞬息を呑んだに違いない。

その女性は美しく、しかしその色彩はモノトーンであった。

黒い着物と白い肌。化粧はしていないように見える。






女性は少し表情を歪めた後、誰とも無く深く頭を下げた。

緩慢とした動作で頭を上げる。




「あの、こちらは榎木津先生の事務所でございましょうか」



そう言った声は小さく頼りなさげであった。

簡単に折れてしまいそうだな、とは思った。



「探偵の榎木津先生のところにお伺いしたのですが、こちらは―――」



誰も言葉を発する者がいない事を不安に思ったのかゆっくりと皆の顔を見回す。




女性は私を見て微かに口元が微笑んだ――――かのように思えた。





「そうです。ここです。あ、久遠寺さまですね、ど、どうぞこちらに」



和寅が慌てて席を立ち、彼女を招き入れた。

ぎくしゃくと可笑しな動きをして、まるで木偶の坊だ。

関口さんは唖然とした様子で彼女を凝視していた。

私は自分がここにいてもいいのだろうかと不安になる。






女性は和寅に促されるまま、私達の向かいに腰を下ろした。

静かに腰を下ろした女性の仕草は見慣れないもので、本物のお嬢様といった感じだ。

彼女は私達―――いや、関口さんに一礼すると困ったように私を見た。




「ああ、ええと、お姫さんは・・どうしましょうかね?」



彼女の視線の意味に気付いた和寅が関口を見た。

関口は曖昧にううん、と唸りを見る。



「ごめんね、ちゃん。榎さんの所に行っててくれるかな?」

「(はい)」




素早く立ち上がり彼女に頭を下げて、和寅に促されるなま榎さんの部屋の扉をノックした。

返事はない。が、部屋に鍵が掛かっているわけでもない。




「先生、お姫さん宜しくお願いしますよ」




女性に気付かれないように小声で扉を開きそう言うと、和寅は私を部屋に入れて扉を閉めた。

扉が閉る瞬間、ちらりと後ろを見るとやはり彼女は私を見て笑っている―――ように見えた。









部屋の中は閑散としていて派手な色の衣服が散らばっている。

奥のベットに榎さんが足を投げ出して寝転がっているが見えた。

部屋の主の了解無しに部屋の奥に入ることも出来ず、それ以上にあの女性と関口の会話が気になり、私は扉に背を預けるような形で座り込んだ。














『姑獲鳥の夏』



私がその小説に出会ったのは一年以上前の話だ。

その時のクラスメートに推理小説や文庫本をよく読んでいる友人がいて、その子に貸してもらった。

正直言うと―――内容はよく覚えていない。

登場人物は皆個性的で好きだなぁ、とは思ったけれど如何せん暇つぶしに読むには内容が難しすぎた。

しかも借り物で急いで読んだものだから、しっかりと内容が把握出来ていない。





ただ関口とあの女性―――久遠寺涼子が・・・・ただならぬ関係を過去に持っていたことはしっかりと覚えている。





彼女がこの事件の全ての鍵を握っている。











ほっと溜息を吐く。

詳細を覚えていなくて良かったと思う。

覚えていたならば私はきっとこの物語の結末を変えてしまう。

そんな気がする。



そしてそれは私にとって最大の禁忌なのだ。

この事件に関わってはいけない。

そう直感が告げている。





ふと思い立った。

声が出ないのは―――もしかしてその為なんじゃないだろうか?

私にこの本の中身を・・・未来を語らせない為。

でもならば誰が?なんの為に私をこの世界へ呼んだのか?

どうしてあの坂の向こうに京極堂が存在したのか―――・・・・










「姫!考え込んだところで答えは出ないぞ!!」



何時の間に起きたのか、ぼんやりとしていた所にいきなり声が掛かり私は飛び上がった。

何か言おうとするが、声が出ない。

私の驚いた顔を見て満足そうに腕を組むと、私の横に立って扉に耳を当てた。




私もそれに倣って扉に耳を当ててみる。

くぐもった二つの声が聞こえるだけでなんと言ってるかは聞き取れない。




「ふふん、まぁ関君にしては上出来じゃあないか」




けれど榎さんには聞こえるようで腕にしている時計をちらりと見た。





「そろそろ僕の出番だな。姫はここにいたまえ。話は聞きたかったら聞けばいい」




そう言うと静かにドアノブを回し、榎さんは扉の外に出た。

けれど衝立の後ろから動くことなく、会話に聞き入っている。

私は開いた扉をどうしようかと迷ったが、やはり話が気になったのでそのまま会話を聞くことにした。








「それでは本当にお引き受けして頂けるのですね?」



さっきとは違い、女性の独特の高い声が耳に響く。

どうやら話は粗方終わってしまったようだった。



「牧郎さんの行方を突き止めれば宜しいのですね?」



関口さんの声が続く。

榎さんの頭が邪魔でここからは二人の姿は見えない。





「それがあなたの御家族の溝を決定的に広げてしまうことになったとしても、あなたはその証拠とやらが欲しいのですか?」






榎さんの先ほどとは一転した厳しい声が聞こえる。





駄目だ。






聞いてはいけない。







反射的に身を翻して扉を閉る。

バタンッと大きな音がして、彼らの声が聞こえなくなった。




動悸が激しい。暑くも無いのに汗が吹き出る。








どうしたらいい?

関わってはいけない。

でも私は此処にいる。

此処にいてはいけない―――・・・








胸ポケットに手を忍ばせる。

達筆な字で京極堂の住所と電話番号が書かれてある。

『中禅寺秋彦』

その字を指でなぞる。




『何かあったらいつでも連絡するといい』

そうは言ったけれど。

どうしろと言うのだろう、何一つ本当の事なんて言えやしないのに。





電話番号・・・・声出ないから電話なんて掛けれないな・・・・





京極さんは気付かなかったのだろうか?

ふいにおかしくなる。あの人もそういうことあるんだ・・・・









出よう。

ここを出よう。事件の核心に触れる前に。

彼らが久遠寺家に行く前に。








嗚咽を必死で堪えて、メモを握り締める。

今はもうお守りになってしまったそれが私の縋る唯一の希望。
















                        真実など何一つ見えず虚構だけが視界を連ねる。

                        しかしそれを視る自分の目こそ曇っている事を。





                               知る者は数少ない。









ではそれを知る者は?








隣の部屋では榎木津の高らかな声が響いていた。









姑獲鳥の夏


開幕――――・・・・・