京極さんに頭を撫でられた。




たったそれだけでひどく安心した自分がいた。











沈丁花怪奇談












「さぁさぁ姫!朝餉を食べたら僕の家へ行くぞ!!」







開口一番榎木津は腰に手を当て大きな声でそう言った。

は「(はぁ・・)」と思わず気の抜けた反応する。

榎木津に対する感想と言えばとにかく元気な人だ、くらいである。










朝起きて見慣れぬ木造の染みだらけの天井を見た時はため息しか出なかった。

喉仏に手を当て、声を出そうとするがやはり出ない。

一晩経てば夢でした―――などはやはり都合の良い解釈なのだ。







全てはまぎれもない現実でそれに失念してそして何処か喜ぶ自分がいる。







これは逃避なのだろうか。

脳が都合の良い夢を見せているだけなのだろうか。

もしかしたら学校に行く途中事故にでも遭ったのかもしれない。

そうして自分は脳死状態でベットに横たわっている、なんてこの前見たドラマを思い出す。





ちゃん?何笑ってるんだい?」

「(いいえ、何も)」





の笑みに関口は首を傾げる。

横で榎木津を見ると対して気にするでもなくご機嫌で口笛を吹いていた。



「さぁさぁさっさと食べたまえ!!」

「ちょっと榎さん!それ僕のですよ!」

「何を言っている!猿にこんな上等な漬物は消化出来ないだろう!!」





榎木津のめちゃくちゃな論理に関口が敵うわけが無い。

関口は京極堂に助けを求めて見たものの、そ知らぬ顔で本を開いている。



「姫も遠慮せず食べたまえ!すぐに出掛けるぞ!」

「(はい)」

「うむ!何処かの猿人とは違って姫は素直だな!」



榎木津がの頭を笑顔で撫でる。

どうやら本当に気に入られてしまったようだ。

ぼうっとしているを置いて会話は進んでいく。



「猿!必要物資を揃えるからついて来い!」

「そんな!僕だって閑(ひま)じゃないんですよ!」

「ほう・・・・閑以外の何者にも見えないがね」


京極堂の言葉に榎木津は満足そうにうんうん、と頷く。

どうせ敵いっこないのだから、と関口は溜息一つでそれを了承した。










結局、朝食を平らげた榎木津はと関口を連れて京極堂を後にした。

京極堂は去り際

「何かあったらいつでも連絡するといい。少なくとも関口君よりは役に立つだろう」

と自宅の電話番号を書いたメモを渡した。





それはの制服の胸ポケットにしっかりと仕舞われている。






衣服などの簡単な日用品を揃え、三人は神保町の駅に降りた。







神保町―――何度か辞書や参考書を買いに出かけたことがある。

書店・古本屋が多く並ぶ町だったはずだが――――見慣れぬ町並には目を細めた。




どちらかというと商店街のような雰囲気で、ポツポツと街道に店が並んでいる。

喫茶店には「かりぃらいす150円」「あいすくりぃむ50円」などの簡易メニューが歩道を阻むように置いてあった。

それでも駅から離れると古書店が軒を連ねている。

見覚えがあるようなないようなーーーーなんとも言えない変な感じだ。

そこから更に裏通りの粉乱(ごみごみ)したさっきよりも小さな商店街を抜けると、一つ時代の先をいったようなビルが見えた。




木造だらけの町並みに――――それはひどくミスマッチだった。


『榎木津ビルヂング』


それはそう名付けられていた。




榎木津に促されるまま階段を上る。

三階に上がった所で曇りガラスに『薔薇十字探偵社』と書かれた金色の文字が見えた。





うわっ・・・本物だよ・・・・





ここで携帯を使っていいならば思わず写メを撮っている所だ。

まるで芸能人の家を発見してしまったような気分だった。

榎木津の顔を見る。京極堂からここまで始終榎木津にこき使われっぱなしの関口とは違い、ご機嫌というか最早有頂天である。





「さぁ、姫!ここが僕の家だ!」



榎木津はの腕を掴むと勢いよく扉を開けた。

腕を引かれる勢いで半ば飛び込むように事務所の中へ入る。

頭の上でカラン、と鐘の音がした。



「ありゃ、お帰りなさい先生。それに作家先生も、いらっしゃい」



最初に目に入ったのは入り口近くに置かれている椅子であった。

声の方向に視線を動かすとその椅子に青年が珈琲片手に座っている。



もしかしてこの人は・・・・




「和寅!紹介するぞ!!彼女は。姫と呼び給え!」

「はぁ?」

「姫!このとぼけた男は僕の使用人の和寅だ!」

「ええと・・・先生、一体なんです?」





先生、と呼んだものの和寅が見たのは関口だった。

榎木津に説明を求めても支離滅裂な回答が返ってくるのは目に見えている。




「んんと・・・・あの・・ねぇ・・・」


いきなり矛先を向けられ関口は閉口した。うまく説明出来ない。


「和寅!猿に説明を求めるな!見ろ、尻じゃなくて顔が真っ赤になっているだろう!
姫は今日から此処に住むことになった!だから今日から食事は三人前だぞ!!」

「はぁ・・・そりゃ、また」


和寅は突然の榎木津の発言に相当困惑しているようだった。

なんとかうまく説明を、と思ったけれど自分は声は出ないし、関口と榎木津はこの調子だ。




の予想通り、和寅と呼ばれた青年は頭を掻き毟りながらこちらを見た。



「ええと・・・さん、ですよね。僕は安和寅吉といいます。
和寅ってのはウチの先生が付けたまぁ愛称のようなもんでして・・・
まぁ、僕の事は適当に呼んで下さいや」


返事は出来ないので代わりに頷く。


「ええと、それでさんは何処のお嬢さんで?」


和寅にそう聞かれて、私は無意識に榎さんの一歩後ろに下がってしまった。

それ見て和寅が素早く瞬きを繰り返した。



「嫌われましたかねー私」

「いや、違うんだよ。ちゃんはしゃべれないんだ。声がね、出ないんだよ」

「え、そうなんすか?そりゃまたぁ難儀なこって・・・」

「そうだ!だから和寅、姫の護衛は僕の役目だ!そしてお前と関君は姫の従者だぞ!」

「はぁ・・・」

「それにさっきから聞いていればなんだ!彼女の事は姫と呼び給え!
関君もだ!ちゃん、などと軽々しいぞ。お前達は従者なのだからな!」

「・・・だったら榎さんはなんなんだい?」

「僕は王様だ!そして姫を守る騎士だ!!」





もはや反論する気にもならない。

和寅は言われた通り「じゃあお姫さんの部屋は何処にします?」と買い物袋を受け取りながら相談を始めた。

榎木津はとりあえず得心を得たようで、部屋の再奥に位置する大きな机にドカッと座った。

卓上には『探偵』と書かれた三角錐が置いてある。




「じゃあ部屋の用意は後でしますんで、とりあえず珈琲でも。
あ、お姫さんは紅茶の方がいいですか?」


こくりと頷くと和寅は陽気に微笑み、紅茶を淹れ始めた。

関口に手を引かれ、『探偵』の机の前の客用の椅子に腰掛ける。


葉の匂いと珈琲の匂いが部屋の中で入り混じり、なんとも言えない香りがした。


三つの珈琲カップをテーブルに置くと、和寅は思い出したように榎木津を見た。





「そういえば先生。今日お客が来るの覚えてますね」

「・・・そうだったか?なんて言ったっけ?」


榎木津がそう言うと和寅は如何にも困ったというように眉を顰めた。


「久遠寺ですよ先生。お客の前で間違わないで下さいよ」










久遠寺・・・・・ってなんだっけ?



その名を私は知っていた。が、

何か聞き覚えのあるような気がするが霞みかかったように思い出せない。

横を見ると関口が呆然と口を開けている。








姑獲鳥―――――










姑獲鳥の―――――










ああ、そうだ。これは――――――











何かを言い争っている関口と榎木津の声が聞こえる。

でも何を言っているのか解らない。

頭の芯がぼうっとする。











やがて、カランと鐘が鳴った。













そこには青白く、けれど美しい女が立っていた―――――