目が覚めた時、部屋には誰もいなかった。

いつの間にか夜が明けている。

ここは一体何処なのか。

知らない場所だというのに、危機感が芽生えない理由をは散らかった部屋の中で見つけた。

転がっているのは木場が以前着ていた上着、そして大量の吸いがらの残った灰皿だ。

部屋からは木場の匂いがする。

そしてテーブルの上には一枚のメモが置かれていた。




午後一時、名曲喫茶「新世界」にて






それが木場らしからぬひどく几帳面な字で書かれていたことを、その時のは気付かなかった。











黒百合の章















空腹のお腹を押さえながら、勝手にタオルを拝借し顔を洗う。

こちらの世界に来てから化粧をしていないせいか、何もしなくても肌のノリがいい。

木場の住まいだと分かって、は出来る範囲で部屋を片づけた。

脱ぎ捨てられていたスーツを壁に掛け、ごみらしきものをゴミ箱に捨てるだけでも随分片付く。

手櫛で髪を整えて、部屋を出て階段を降りると、居間にお婆さんが一人座っていた。





「あの、」

「木場さんなら出かけたよ」






こちらを見ることもせずに、お茶を啜りながらそう言った。

それでもぺこりと会釈をして、玄関で靴を履く。

朦朧とする頭を右手で押さえながら、メモに書かれた地図を頼りに知らない街を歩く。

一時にはまだ少し早い。この分ならきっと間に合う。





そういえば、そもそもどうして木場の部屋で寝ていたのだろう。

どうも、その辺の記憶が曖昧で思い出せない。

スカートのポケットの中を探ると、見慣れない旧札が一枚出てきた。


そう、煙草を、



煙草を買いに行ったのだ。

けれど煙草は持っていない。

買えなかったのか。

でも、どうして?




ゆらり、ゆらり、思考が揺れる。何故だが頭が重い。頭痛がする。

周囲は工場地帯のようで、小さな煙突が数本煙をはき出しながら立っている。

そのところどころは空き地で、ゴミとも家具とも言えないようなものが散らかっていた。

戦後の昭和、本来ならば決して見ることのなかった風景の一部。

その中に『新世界』という看板を見つけた。








扉を開けるとカラン、とドアに付けられていたベルが大きな音を立てた。

耳に途切れ途切れに響くレコードの音が入ってくる。モーツァルトだ。







店内を見回すが、木場の姿はない。

老夫婦が一組、母親らしき子連れが一組、あとは背広の男性がこちらに背を向けて座っている。

そういえば今日は平日のはずだ。どうりで客は少なかった。

が入店しても特に声を掛けられる気配がなかったので、そのまま入口すぐ傍の席に座った。

何をするでもなく、聞き慣れたモーツァルトに目を閉じる。















「また会いましたね」






すっと、まるで空気のようにその声が耳に飛び込んできた。

慌てて眼を開けると、背の高い黒いスーツの男がすぐ傍に立っていた。

木場じゃない。手には白い手袋が嵌められている。

慌てて店内を見回せば、さっきまで黒スーツの男が座っていた席が空席になっていた。



「また・・・・?」

「昨日も、お会いしましたでしょう」




そう言われて記憶を巡らす。

白い手袋の、昨日?会った・・・・でも、それよりもずっと前に、どこかで、




「昨日・・・」

「道を、教えて頂きまして」




あの時はどうも助かりましたと、男は丁寧に頭を下げた。

ポマードの匂いが鼻につく。



「待ち合わせですか?」



いつの間にか向かいに座っていた男に、ウエイトレスが二人分の水をテーブルに置いた。

連れ、と勘違いされてしまったらしい。




「ええ、そうなんです」

「そうですか」




そう言いながらも、男は席を動こうとしない。

なんとなく不愉快に思いながら、目の前の水を飲んだ。

頭痛は止まない。

手の中のメモを無意識に握りしめる。視界が、どこか歪む。





「おや、どうかしましたか?さん」






男の白い手が、ゆっくりとこちらに向かって伸びてくる。

私はいつ、この人に名前を教えたのだろう。








さん』







脳内に、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。

女の声だ。この声は、

久遠寺涼子――――?







握りしめていたメモが手から零れ落ちる。

そこでの意識は途絶えた。






























時計の針が一時を過ぎた頃、関口と榎木津は『新世界』の看板が掛った喫茶店に入っていた。




「センスの悪い店だ。このような音楽を流していては一分と待たずに熟睡してしまう、ねえ亀くん」


偶然入った店に榎木津は眉を顰めながら、店内を見回す。

狭い店の中は客で埋まっている。と言っても、テーブルが五つほどしかないのだから仕方がない。

空いているのは入口近くの一席だけだったが、そこには誰もいないのに水が二つ置かれていた。





「ああ、君、ここ空いてるのかな?」





関口は給仕の女性に声を掛けた。主婦らしき中年の女性は小首を傾げる。


「いえ、さっきまではお客様がいらっしゃいましたが・・・帰ったのかしら?」



グラスの中の氷は既に溶けてしまっている。

結露した水がグラスの下に敷いてあった紙製のコースターを濡らしていた。




「じゃあ空席だな!僕は喉が渇いたぞ!!」




そう言うなり榎木津は置かれていた水の一つを飲み干してしまった。

そしてどかっとそこに座る。



「ちょっ、ちょっと榎さん!それ誰かが飲んだかもしれないじゃないか」

「ふん!僕は喉が渇いたから飲んだだけだ!分かったら、珈琲を・・・・・」





そこで、榎木津がぴたりと止まってしまった。

じぃっと給仕の女性を見つめている。女性は、何を勘違いしたのか顔を赤らめた。



「え、榎さん?どうしたんです?」

「君、姫を見たな?一緒にいた男は誰だ?」

「え?ちゃん?」






榎木津が給仕の女性に詰め寄る。

女性も、そして関口も訳が分からず、ただ茫然とした。

どうやら榎木津はまた何かを視た・・らしい。





「姫がそこに座っていた。そうだな?」



そう言って、榎木津が自分が座った席の向かいの席を指さした。



「そして僕が座っているこの席にその男が座っていた」



榎木津が飲んだのは違うもう一つのグラスを手に取る。

そしてその匂いを嗅ぐように鼻を近づけた。




「何か入っているな」

「な、何かって・・・・」

「里村の変態じゃないんだ!僕が知るか!」




ガン、と榎木津がテーブルにグラスを叩きつける。その拍子にグラスから水が零れた。

店中の視線が榎木津に向く。だが榎木津はそんなものは目に入っていないらしい。

冷汗がどっと流れる。

榎木津の言う通りなら、グラスには何かが入っていたらしい。

そしてそのグラスが置かれていた席には彼女が、




「手袋だ・・・手袋をした男だ。そうだな?」




榎木津は給仕の女性を睨みつけた。女性は怯みながらも頷く。



「た、確かに白い手袋を・・・でも顔は見ていなくて・・・・」

「亀!京極の所へ行け!それに木場だ!」

「わ、わかった。でも榎さんは!?」

「僕は探偵だ!!!」







榎木津が勢いよく喫茶店を飛び出す。

置いて行かれた関口はテーブルから零れ落ちてゆく水滴をぼんやりと見つめた。

水がぽたりぽたりと、床と、床に落ちていた紙を濡らしてゆく。

関口は不思議に思い、濡れた紙片を拾い上げた。

その紙片に書かれていた内容を見、関口はようやく事の重大さを悟った。