長い、長い、夜が明けた。

だがそれは終わりではない。

まだ私は悪夢の内にいる。






きっと眩暈坂を登ったあの時から悪夢は始まっていたのだ。





そして私は待っている――――黒衣の男を











沈丁花怪奇談












気が付くと夜が明けていた。

雨はいつの間にか止んでいる。

あの後は木場に抱えられるように京極堂に帰り、湯船に放りこまれた。

髪の水気を手拭で取りながら居間に戻ると既に木場の姿はない。

その代わりのように京極堂が居間の定位置に鎮座していた。

珍しく手の中に本はない。









「あの・・・・関口先生は」

「あれは一度家に帰したよ。あんな姿で敷居を跨がれては家が汚れる。
こっちへおいで。そのままでは風邪を引く」





言われたままに京極堂の前に座ると肩に掛かっていた手拭を取られた。

ガシガシと少し乱暴に―――かといって痛いと言う程でもない手付きに目を閉じる。

まるで小さな子供のようだ。




「どうなったんですか?」




聞いてはいけないだろうと思いつつも聞かずにはいられなかった。

手が止まる気配はない。




「関口のことか?それとも久遠寺か」

「両方・・・です」




躊躇するように答えると、さっきよりも乱暴に頭を拭かれ手拭が置かれる。

振り向くと顎に手を当てた京極堂と目が合った。




「呪いは解くよ。こうなっては致し方ない。
関口も久遠寺も・・・・・無論、君も」




君も、と言われびくりと肩が震えた。

どう返せば良いか分からずただ京極堂を見つめる。






「何故、声が出るようになったかわかるかい?」





少し沈黙した後、を見据えたまま京極堂が口を開いた。

風鈴の音が風に乗って鳴り響く。

千鶴子のいない家には二人きり―――、まるで尋問でもされているようだった。






「君は呪いを解いたのだ。自らの力でね。だが全てではない。
君の呪いを本当の意味・・・・・で解けるのは一人だけだ。おそらくあの――――]






その言葉は最後まで続かなかった。

遮るように電話が鳴る。京極堂は何も言わずに立ち上がった。

その後ろ姿をぼんやりと見つめる。








―――――――――――やはり、気付かれている。








自分がここにいるのは、誰の意思か。

その答えは自分の中では答えが出ていた。

おそらくそれは正解なのだ。








あの、女。







十中八九京極堂はその事に気付いている。

ただ座敷にいて本を読んで人の話を聞いているだけなのに、一体何時の間に気付いたのか。

榎木津礼二郎は恐らくの記憶を見た・・のだろう。

だとすると最初から見抜かれていたのか。









恐ろしい、とそう思う。









小説の中の人物ならなんでもありだ。

否、小説の中の人物だからこそ京極堂や榎木津のような人種が在り得るのだ。

だが今ここにいる人物達は疑うことなく生きている・・・・・

だからこそ、恐ろしい。










「木場の旦那からだ。今夜動く」








頭から京極堂の声がして、慌てて顔を上げた。

大きな手が降ってきたかと思うと髪を整えるように頭を撫でられる。






「少し寝たまえ。昼過ぎには起こして上げよう」






至極――――優しい声で囁かれ、思わず絶句してしまった。

卓袱台の脇に積まれた本を一つ手に取ると、部屋の隅に置かれた枕と毛布を指し示す。





「榎木津が勝手に置いていった物だがね。偶にはあの男も役に立つ。
それを持ってここにおいで」




京極堂はそう言って、自分の隣をぽんぽんと叩いた。

言われるまま榎木津の昼寝セットを持って、彼のすぐ隣に枕を置く。

毛布を軽く腹に掛けて寝転ぶと、また頭を撫でられた。







「君が悪夢を見ないよう、ここで番をしていよう。お休み――――









まるで呪いまじなのように頭を撫でていた京極堂の手の平がそのまま目を覆い隠した。

それに合わせて目を閉じる。眠気はすぐに訪れた。




時折聞こえるページの捲られる音と、心地良い風鈴の音を聞きながら。









何故かまだ母が優しかった頃の夢を見ていた。