「駒が足りない」





顔色の悪い拝み屋はそう言った。











沈丁花怪奇談












「だからなんだってんだ」





木場は赤子失踪事件の資料を見つめながら呟いた。

三組の夫婦が同じ時期に訴えを取り下げたこの事件。

結局起訴する事が出来ずに終わってしまった。



資料には見飽きたなまえが載っている。

何故皆、我が子を奪われながら告訴を取り下げたのか。

そこから辿れば、久遠寺家の秘密に繋がるかもしれない。








「妖怪の正体はいずれ明らかになる。ただそれには―――」








困惑した表情の木場に京極堂は言った。

ただ座敷にいるだけの男が何故現場で捜査している木場よりも事態を把握しているかは釈然としないが、少なくとも木場の知らない何かをこの男は知っているのだろう。






「駒が足りない」




顔色の悪い拝み屋はそう言った。




「ここからは旦那の仕事です」



そうなのだ。

駒を集める事こそが木場の役割なのだ。

証拠を揃え、犯人を挙げる。それが刑事の務めだ。


あの娘の正体なんぞごちゃごちゃと考えるのは木場の役割じゃない。

それは拝み屋の仕事だ。

やるべき事が決まれば後は動くだけだ。






その後の木場の行動は速かった。

部下の青木を引き連れ、赤子失踪事件の被害者の元へ訪れる。

だが、事件時の住所には誰も住んではいなかった。

資料の最後に記載されていた原澤伍一にようやく会えたのは夕刻過ぎだった。









「どうなってやがる」

原澤の話で久遠寺家が百万もの口止め料を被害者家族に支払っていた事が分かった。

だが原澤は今だ我が子の死に疑問を抱き、久遠寺家を恨んでいた。

必ず敵を取ると約束したものの、どうにも事態がうまく把握出来ない。

久遠寺家の当時の看護婦は死に、事情を知っていると思われる者がことごとく東京から消えているのだ。





「先輩、さっき署に連絡入れたんですが」

「おう」

「中禅寺さんという方から電話があったそうです。至急連絡を取りたいとの事で」

「・・・そうか、ちょっと電話してくらぁ」

「はい」






原澤の家と灰色の空を一瞥して、木場は赤電話に向かった。

手馴れた手つきで番号を回す。待っていたようで、主はすぐに出た。






「おう、木場だ」

『旦那、こっちへ来れますか』

「何か分かったのか」

『さっき関口が帰ってきた。榎木津とは別にです。どうやら関口は化かされているようだ』

「ああ?例の妖怪にか?こっちだって暇じゃねぇんだ。奇怪話は御免だぜ?しかし礼二郎はどうした?関と一緒に行ったはずだろ」

『ですからそれをお話したいんですよ。そっちは何か分かりましたか?』

「まぁな。あの娘はどうした?」

『うちにいますよ』

「そうか。仕方ねぇ、今から行くからメシの一杯でも頼むぜ」

『それくらいは善処しますよ。それでは後で』






受話器を置くと、木場は青木に死んだ看護婦・戸田澄江について調べるように言った。

そして中野へと向かうべく、歩き出す。









どうにもわからなかった。

赤子失踪事件や久遠寺家の事じゃない。

の事だ。

何故あの娘が関係あるのか、あの娘の正体は一体なんなのか。

木場には皆目検討が付かなかった。

あの娘も駒の一つだというのか。

だとすれば一体何を形成する為の駒なのか?・・・・・・・・・・・・・・・









電車を降りると、見慣れた坂を登り始めた。

まだ八時過ぎだというのに、辺りは真夜中のような静けさだ。

自然、早足になる。










坂を登りきると、暗闇の中に人影を見つけた。

まるで陽炎のように現実味の無い眼が木場を捉える。

それはゆっくりと笑みを作って、木場に頭を下げた。









「オメェ、どうした」



自分よりもはるかに小さな身体を風から護るように引き寄せた。

夏とはいえ、夜は冷える。

少女は京極堂を指差すと木場の袖を引いた。



「出迎えか?」



そう言うと、まるで小動物のように首を縦に振った。

何が嬉しいのか、笑う娘に自然と木場も肩の力が抜ける。

















意識した事はなかったが、木場は初めて少女の名を呼んだ。




「あー、なんだ・・・・お前ェも色々理由ありみてぇだが・・・・・」




初めて会った時と同じように、少女の細い腕を掴む。





「京極堂や礼二郎の馬鹿や・・・・・俺らが護ってるからよ・・・・あんまり心配すんな」





照れくささで顔が熱い。

まるで恋を告白する小僧のようだと思った。

ましてや相手は一回りも離れた少女だ。

榎木津や京極堂に知られたら馬鹿にされるに違いない。

それでも言わなければならなかった。

これから京極堂で話される事柄は少なからずこの少女を傷つけるかもしれないから。

どうしてもその前に。










木場の言葉には笑った。初めて見た哀しそうな笑みではなく。

本当に嬉しそうに、頬を赤らめて照れくさそうに。







再び少女に袖を引かれ、灯りの点いた京極堂へ向かう。

玄関を開けると、いつも通り不機嫌そうな主人と世界の不幸を背負ったような顔をした小説家が卓袱台を囲んでいた。