木場が目を覚ました頃には陽は高く昇っていた。

冴えない頭を横に振り、足元に転がっていたコップを手に取る。

蛇口を捻るともうコップを使う気はせず、流れる水にそのまま顔を突っ込んだ。

気が済むまで水を飲むと、少しだけ目が覚めた気がする。

だが気分までは冴えない。

何かがもやもやとつかえているのだ。

その原因は明白だった。


あの娘だ。




時計を見る。口約束をした時間は既に過ぎている。

アイロンのかけられていないシャツを箪笥から取り出すと、着ていた皺だらけのシャツを脱ぎ捨てた。









あの娘はまだ、自分を見て脅えるだろうか。







そんな事が何故か気になった。















「随分と重役出勤だね。警察はそんなに暇なのかい」


顔を見るや否や主人は毒を吐く。

だがそんな事はこの家の敷居を跨いだ事のある者ならば最早慣れっこである。

鬼だろうが地獄の閻魔だろうが、毎日見ていたら恐ろしくもなくなるだろう。



「五月蠅ェよ。夜中まで働いた上に早起きなんざ出来るかよ。
官憲にだって人権くらいあんだよ」


いつもの軽口を叩いて座敷を見回す。

千鶴子は席を外したのか姿は見えず、家の中は京極堂一人のようだった。



「・・・・あの娘はどうした?」

君なら榎木津が連れて行きましたよ」

「あん?何処にだ」

「久遠寺家です」


溜息混じりに言う京極堂の言葉に眉尻が上がる。

どうしてあの男は事態をややこしくするのが好きなのか。

いや、ややこしい事態だからこそあの男が必要なのか。




「あの古ぼけた病院になんの用がある。礼二郎が妊娠でもしたか」

「用があるのは久遠寺家の方ですよ。何を勘違いしたか榎木津の事務所に依頼に来たんです」

「あぁ?あの馬鹿に何を依頼するってんだ。それにあの娘を連れ出す必要が何処にある?」

「それも久遠寺家の意向・・・いや、依頼人の依頼だそうですよ。
それに関しては僕も同感です。何故久遠寺涼子が君を呼んだか。
とりあえずは敦子が同行しているので心配は要らないと思うが、関口はまず役に立たないだろうね。
榎木津が真実を見抜いたとしても依頼人の希望に沿う形での事件解決が出来るとは思わない」

「そりゃあ・・・・そうだろうな」




榎木津のおかしな能力の事は極少数の者しか知らない。

木場にもよくわからぬが、目の前の男に説明された所で理解出来ぬだろう。

元々形の無い、目に見えないような事が嫌いなのだ。

ただその能力でもたらされるものは成功よりも被害の方が格段に多い。

順序立てて説明する、という事が出来ない礼二郎は真相のみを看破してしまうからだ。

推理もしない、トリックも暴けない、ただ真犯人だけを言い当てる・・・・・・・・・・・探偵など読者は求めていないのだ。




「お前が礼二郎について行けば話は早いんじゃねぇのか」

ふと思った事を口にした。

だが主人は気に入らなかったようで、額に皺を刻んだ。



「冗談じゃない。僕が行く義理が何処にある」

「あの娘の今の保護者はお前ェだろ。それに妹やら関口やら行かせるくらいなら自分てめぇが行くべきじゃねぇのか」

「関口と敦子が同行したのは仕事ですよ。君は・・・確かに心配ではあるが、とりあえずは榎木津がいる。あれはあんた同様腕が立つし、何より君をいたく気に入っている。いざとなったら護りぬくだろう」

「そうだ、あの娘だ。あの娘はなんなんだ?」



それが本題であったはずが、すっかり脱線してしまっていた。

どうもこの男相手だと余談が余談でなくなってしまう。





「あれは・・・・けちびですよ」

「あ?なんだ?」

「妖怪です」

「ああ??気でも違ったか」

「ものの例えですよ。関口と一緒にされては困りますね」

「俺が聞いてのはなぁ、何処の生まれで家は何処かっって事だ!」

「そんな事僕が知るわけないでしょう。いや・・・おそらく我々にそれを知る術はない・・・・・・・・・・・・

「・・・・どういう事だ?」

「あれはね旦那・・・・・・                    」







古本屋の主人は酷く神経質そうな顔を更に強張らせながら、そう言った。

普段ならば馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばしただろうが、木場には覚えがあった。


感じた違和感。
危険だと告げた刑事の勘。





何よりあまりに真剣にその言葉を吐いたのが、陰陽師を生業としたこの男でなければ、初めから耳を傾けなどしなかっただろう。




榎木津は何を見たのだろうか?

だから興味を示したのか?







「馬鹿言うんじゃねぇ・・・」






喉からなんとか発した言葉は語尾が弱弱しかった。

そんなものあるはずがない。

木場はそういう掴めも殴れもしないものが嫌いなのだ。

第一あの娘は存在していた。

木場はこの手であの細い腕を掴んだのだ。













「あれはね旦那・・・・・・この世の存在ものではないんですよ」














四人が久遠寺家に入って一時間が経とうとしていた。













沈丁花怪奇談







第一幕閉幕