その夜は眠れなかった。 けれど必ず朝というものはやってくるもので。 沈丁花怪奇談午後十時。 千鶴子さんは買い物に出かけて、京極さんは店先で本を読んでいる。 台座のようなものに肘を置いて時折ページの捲れる音がする以外はとても静かだ。 此処へ来てまた一週間なのに、この光景にも慣れつつある自分が怖い。 声も出ないままで、けれど耳が聞こえない・目が見えないという事よりは不便は格段に少ない。喋れない事は今の現実を考えればむしろ有利に働いている。 だからこんなにも落ち着いていられるのかもしれない。 ふいに「にゃあ」と猫の鳴き声がした。 振り向くと廊下をひたひたと歩いている小さな生き物。石榴だ。 全く人に懐かないようなこの猫も京極さんだけには甘えた仕草をする。 抱いてみたくて何度かトライしてみたけれど、結局引っ掻かれるだけで終わってしまった。 じっと見ていると、つん、とすました態度で尻尾を振って庭に下りてしまった。 なんとなく意地になって追いかけようとすると、急に車のエンジン音のようなものが聞こえた。 (・・・・・?) 京極堂の前には小さな道路があるが、車なんてほとんど通らない。 というかこの時代当然車は一家に一台なんて代物ではなく、電話でさえ一家にあるかないかの物だ。 エンジン音なんてこの付近では珍しく・・・・京極さんも気付いたのか本から顔を上げた。 「うちの前で止まったようだな」 顔を上げた時には既にエンジン音は止んでいて、来客だろうかと京極堂は腰を上げた。 店の入り口の戸口を開けると、そこには半ば予想しかけた人物が。 「やはりあんたか・・・全くやかましいのは自分だけにして下さいよ」 「ふん!何を言うか!どうだ見ろ!サイドカーだぞ!オートバイなのに二人乗れるのだ。すごいだろう!!」 「そんな事は見ればわかる。それより何の用ですか?」 「お前じゃない、姫を迎えに来たんだ!今日あの海音寺とかいう医者の家に行くのだ!」 「聞いてませんね。それに久遠寺家に彼女を連れて行く必要はない」 「そんな事はお前が決める事じゃない!さぁ姫行くぞ!ぼやぼやしてると日が暮れる!」 (・・・・!) 榎木津に腕を引っ張られ無理矢理引きずられるように玄関に連れていかれる。 これで声が出ようものなら叫び声の一つでも上げていようものだが、いかんせん声は出ない。 京極堂を見れば、やれやれと溜息を付いて榎木津を睨み付けている。 「ちゃんと返して下さいよ」 「姫はお前のものじゃないだろう!なんだその言い草は」 「分かってるとは思うが――――」 そこで京極堂の言葉は途切れた。 二人の間に何かピリピリとしたものが走る。 「分かっている!心配無用だ!」 一体何が分かっているのか、には分からなかったが二人の間では通じたらしく、榎木津の答えに京極堂は頷いた。 「それじゃ行くぞ!」 榎木津にそのまま引きずられ、京極堂を後にする。 京極堂の表に面した道路には大きなサイドカーが中央に居座っていた。 「さあさあ、乗りたまえ!姫はそこだ!」 強引にヘルメットを被せられ、バイクの横に付いている補助席のような席に座らされた。 サイドカーなんて現代でも珍しい。 「よし!しっかり掴まってるんだぞ!」 榎さんはヘルメットも被らずにゴーグルだけをして、バイク部分に跨った。 それだけ見るとすごくかっこいいけど。 走り出したサイドカーは時折ガタガタと音を立てて揺れる。 怖くて目を瞑っていたら、ガタンと車体が傾き動きが止まった。 「着いたぞ!さぁ降りたまえ!」 そう言われて目を開けると、傾いたままのサイドカー。 このままひっくり返るんじゃないかとヒヤヒヤしながら、降りると榎さんの姿がない。 「やぁ!来ていたのか!」 榎さんの声に慌てて振り返ると、そこには関口とショートカットにスーツ姿の若い女性が立っていた。 もしかしてあれは・・・・・・ 「何だ、誰かと思えば、敦っちゃんじゃないか。今日も可愛いねぇ」 やっぱり。京極堂の妹の敦子だ。 「すいません、先生に無理にお願いしてついて来てしまったんです。 あの・・・・もしかして後ろのお嬢さんはさんですか?」 「おおう!そういえば敦っちゃんは初めてだったな!そうだ! これが猿が拾ってきた姫だ!どうだ、可愛いだろう!!」 榎さんに腕を引っ張られて無理矢理前に出される。 敦子さんの目の前に身体を突き出されて、ばっちり彼女と目が合ってしまった。 「初めまして。中禅寺敦子です。兄の所にいるそうですね」 (はい) とりあえず頷いてみると、彼女はにこりと笑った。 キャリアウーマンな印象が強いが笑うとやはり女性らしい。 「さぁさぁ行こうじゃないか、海音寺家とやらに!! ぼやぼやしてると日が暮れてしまうぞ!!」 「久遠寺だよ、榎さん」 「そんな事はどうでもいいのだ!さぁ行くぞ!!」 意気揚々と歩き出す榎さんはまるで遊園地に行く子供のようだ。 そんな榎さんに私は何故か手を取られていて、引きずられるように坂道を登り始めた。 鬱蒼(うっそう)と生い茂る草木の中に細い道が付いている。 途中関口さんが所々立ち止まっては周囲を見回していた。 ――――――――――――? 空を覆うように生い茂る木々。 先の見えない細い道。 ちりちりと背中で感じる違和感。 ――――――――――――見たことが、 ――――――――――――この景色見たことが、 ――――――――――――見たことが、ある――――? 違う、そうじゃない。 私はただ知っているだけ。 小説で読んで、本で読んで、だから知っているだけ。 なのにどうして。 この既視感覚は? 「わざわざおいで戴いて申し訳ありません」 ――――そこには白く、けれど美しい女が立っていた 女は、 私を見て、 ―――――――――――遊びましょう また、嗤った。 |