―――――――――それは至極普通の、真夏日であったように思う。 沈丁花怪奇談何がきっかけだったのかと言われればよく分からない。 駅の構内で誰かにぶつかった時かもしれないし、 道端で黒猫に横切られた時かもしれない。 はたまたコンビニで立ち読みした時だったか。 とにかく耳鳴りがひどかったという他ない。 おかしい―――そう思ったのは学校に後少しで着く、という一歩手前の所だった。 この煙草屋の角を曲がれば正門―――そこまで来てやっと気付いた。 正門がない。 いや、正確には学校がなかったのだ。 あんなに大きな建物、校庭、敷地が一切無くなっている。 代わりあるのは長い長い坂。 道を間違えたのだろうか・・・・・ 振り返ると見慣れた煙草屋。 目の前にはひたすら坂道。 はい・・・・・・? そもそも毎日通っている道を間違えるなんて有り得ない。 いや、今の事実を客観的に見れば間違ってるのは私なんだろうけど。 けど何故か間違ってるのはこの坂道だという確信がある。 額が汗ばむ。これは暑さのせいなんかじゃない。 慌てて携帯を見る。時刻は八時二十分。完全遅刻。 とにかく誰かに連絡しよう、と電話帳を開き通話ボタンを押すが応答無し。 ディスプレイのアンテナ部分には圏外の文字。 ・・・・・・・・・・・はい? なんでこんな場所で圏外なんでしょうか。 普通バリサンでしょ、有り得ない。 目の前の坂道を睨みつける。本当に長い坂道。 加えてなんだか蜃気楼でも出てそうな雰囲気。 それに朝だってのに人っ子一人歩いてない。 そういえば途中から全然誰にもすれ違ってないような気がする。 どの辺からだっけ・・・・・思い出せない。 とにかく登ってみようか、この坂道を。 普通なら引き返すんだろうけど、なんとなく意地になっていてこの坂道の正体を確かめてやろうかと思う。 噴出す汗をタオルで拭きながら、最初の一歩を踏み出す。 途中やっぱり誰にも会わなくて、蝉の音も車の音もしなくて。 なんだかくらくらと眩暈がして気持ち悪い。 とうとう坂の真ん中辺りで座り込む。 ああ、もしかしてもしかして私って完全な迷子・・・・・ もはや立ち上がる気力さえなく、ぼぅっと目の前の景色を見つめる。 だんだんその景色がぼやけて来て、自分が泣いてるのがわかる。 それから一体どれくらいが経ったのか。五分か一時間かさえわからない。 膝を抱えて完全に地面に座り込んでいると、頭の上から声がした。 「君、大丈夫かい?」 ガバッ!! 泣き顔も構わず思いっきり顔を上げる。 そこにはいかにも冴えない中年男性(失礼)といった感じのヨレヨレのシャツを来たおじさんが立っていた。 人!人がいた!! 嬉しさのあまり声も出ず、パクパクと口だけが動く。 おじさんは困ったように顔を歪ませてポンポンと私の頭を撫でた。 その仕草に目頭が再び熱くなる。 「どうしたの?具合が悪いのかな?」 「(違う!道に迷ったの!!)」 「・・・・・・?ええと、僕は怪しいもんじゃないよ。この先の京極堂に用があるんだ。君は?」 「(だから〜〜〜道に迷ったんです!!)」 そこまで言って気付く。声が出ない。 口だけがパクパクと動いているのに声帯が止まってしまったかのように動かない。 「・・・・君・・・・喋れないのかい?」 おじさんが更に困ったように顔を歪ませて私を見る。 私はブンブンと首を横に振ってなんとかしゃべろうとするけど、声は一向に出ない。 「そうかい、困ったなぁ・・・・・」 私の意図などお構い無しにおじさんは頭をガリガリと掻いた。 やがて思いついたようにポン、と手を叩く。 「あのね、一緒に京極堂へ行こう。とりあえず話はそれから」 おじさんはそう言うと、座ったままの私に手を差し伸べた。 その手を取って坂道を二人、歩き出す。 知らないおじさんに手を繋がれているのに何故か嫌な感じはしない。 むしろ安心する。私ってこんなに弱虫だったっけ・・・・? それにどうして声が出ないだろう・・・・いつから? 「着いたよ、ほらあそこ」 おじさんの声に顔を上げるとそこには『京極堂』と書かれた額が見えた。 あれ・・・・? なんとなくその札に見覚えがある。 もう一度周りを見回す。『京極堂』その看板も私は知っている。 いや、違う。知ってるんじゃない。 私はこの風景を表す描写を何処かで読んだことがあるのだ。 ――――どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道を登り詰めたところが、目指す京極堂である。 ――――主人は毎度のことながらまるで親でも死んだような仏頂面で・・・・ ・・・・・・・・・・・はい? 違う違う違う。そんなはずはない。 「よう」 おじさんの声が聞こえる。 開け放ってあった戸をくぐって、おじさんは既に店の中に入ってしまった。 「なんだい、関口君。君も大概暇なんだね」 「いや、そうじゃないんだ。実はちょっと困った事があってね」 「・・・・全く君は僕をなんだと思ってるのかね。僕は便利屋じゃないんだよ」 「わかってるさ。だけどあのままにしておくわけにも・・・ああ、入っておいで」 「連れがいるのかい?」 おじさんの声がして、私は大騒ぎしている鼓動を抑えて店の中に入った。 大きな本棚に本がみっしりと詰まっている。 黴臭いような古臭いようななんとも言えないに匂いがする。 奥の座敷におじさんと、もう一人和服を着た中年の男性が居た。 ――――主人は毎度のことながらまるで親でも死んだような仏頂面で・・・・ この時ほど声が出なくて良かったと思ったことはない。 もし出ていたら大声上げて彼の名前を呼んでいただろうから。 「関口君、彼女は?」 「それが・・・・」 彼らの声が遠くに聞こえる。 ああ、もしかしてもしかしなくても。 目の前にいるのは鬱病他、持病持ちの小説家・関口巽と古本屋主人・副業憑き物落しの中禅寺秋彦 ここは彼の有名な小説の中の―――― 『京極堂』 なのでしょうか。 |