身体に戦慄が走った。 傷ついたのは自分じゃない。なのに。 彼と同じ個所から血が噴き出す錯覚を覚えて、膝が崩れ落ちる。 怖いのは敵でも血でもない。 ただ、彼を失うのが怖かった。 幸せの天秤かたりと、小さな音が廊下に響いては足を止めた。 盆の上の水差しが揺れて、音を立ててしまったのだ。 普通なら気にすることもない。けれど、彼はとても鋭く敏感だから。 ほんの些細な音でも目を覚ましてしまうかもしれない。 盆をゆっくりと冷たい廊下に置き部屋の障子を開けると、そこには昨日と変わらず寝たままの山崎が居た。 盆をゆっくりと部屋の中に入れ、自分も部屋に入り障子を閉める。 たったそれだけの動作にも時間を掛けると、はふっと小さなため息を吐いた。 山崎がを庇って傷を負ったのは三日前のことだった。 人手不足の折、伝令に走ったは、途中敵と遭遇してしまった。 咄嗟に懐刀を構えたものの、の腕など赤子同然、敵は躊躇なく刀を振り上げた。 恐怖に動けず、叫ぶことも出来なかったを庇い、敵を倒したのは山崎だった。 だが誰かを庇いながら戦うことは容易ではない。 彼は肩に傷を負い、その場に倒れてもう、三日になる。 「ごめんなさい・・・・」 届かないのを知ってて、それでも呟かずにいられない。 知っている、分かっている。 新撰組の隊士はこれくらいでは死なない。死ぬわけがない。 信念と誇りで支えられた生はこのぐらいでは揺るがないのだと、隊士たちの生き様を見て学んだけれど。 それで不安が消えないのは、いつも遠くから見守ってくれる視線が今は閉じられているから。 いつの間にか気付いていた。 貴方の視線を感じる度に、跳ね上がる鼓動と脈拍の意味。 いつの間にか探してた。 何処に居たって貴方が見守っていてくれると自惚れて。 彼の優しさに甘えた。 その結果が、これだ。 井戸水を汲んだ桶に手ぬぐいを浸す。 その寒さに身ぶるいして、ぴちゃりと水が微かに撥ねた。 丁寧に手ぬぐいを絞って、額に当てると僅かに山崎が呻いた。 「山崎・・・さん・・・・?」 起きてくれるだろうか、そう思って頬にほんの少しだけ、触れる。 人差し指に触れた微かな温もりだけが、彼が確かに生きていることを教えてくれる。 その温もりがもっと欲しくて、彼が生きている証が欲しくて、 「す、すむ・・・・さん・・・・・」 まるで免罪符を乞うかのように、初めて紡ぐ彼の名前を呟いて、 そっと、 そっと、 心の臓に耳を当てた。 どくん・・・・どくんと、 規則的に木霊するその鼓動の熱さに、 目を、閉じると、 まるで彼に抱かれているかのような錯覚を起こす。 しばらくこのままでいたい、なんてひとりよがりの我儘を、 彼は許してはくれないだろう。 「ごめんなさい」 謝罪の言葉を繰り返して、身体を放す。 肌寒さを感じて、部屋を見れば障子の端がほんの少し破られていた。 「穴、開いちゃってる・・・・・」 きっと破ったのは山崎さんじゃないんだろう。 平助君や永倉さんに違いない、その風景が容易に想像出来てくすりと笑ってしまう。 今の内に直してしまおう、そう考えて立ち上がろうとすると何かが袖に引っかかった。 「何故、君は謝るんだ?」 袖を引いているのは、誰か問うまでもなく。 「・・・・・・・や、・・・山崎さん!?」 「叫ばなくても聞こえている」 「ご、ごめんなさい!じゃ、なくて目、覚めたんですね!?」 「ああ、今しがた。君には迷惑をかけたようだ」 「そんな、そんなこと・・・・私こそ!」 泣いても迷惑なだけだ、それは沖田に散々言われたことだった。 泣かれて喜ぶ男などいない、そう言ったのは原田だった。 いけない、泣いては、そう思うけど、目尻が熱くてどうしようもない。 「泣くな」 包帯が巻かれた手が伸びて、私の涙を掬う。 その傷ついた手を包むように両手で抱き締めれば、もう、涙は止められない。 「君、君は予想以上に泣き虫だな」 「すいません・・・・」 「謝ることじゃない」 「でも、山崎さんにこんなお怪我させてしまって・・・・!」 「それは俺の力量が足りぬが故。君に責任はない」 淡々と、感情の読めない声が鼓膜に響く。 それが冷徹なのではなく、優しさを隠した声だと知ったのは何時だったろう。 彼のどんな言葉にも優しさと厳しさと、その両方が込められている。 「さっき・・・・・」 「え?」 涙を拭いながら、それでも触れ合った手を離すことが出来ずにいると山崎がふと視線を天井に映した。 つられてなんとなく、上を見る。 「さっき、何をしていたんだ?」 そう言われても咄嗟になんのことか分からず首を傾げる。 「私、何かしてました?」 思ったままを口にすると、山崎が困ったように眉を潜める。 「俺の、上で・・・・・何かしていなかったか?」 「え・・・・・、あ、あの・・・!」 心の臓の音を聞いていたことを言っているのだろう。 まさかあの時から気付いていたなんて思わなかった。いや、きっとあれがきっかけで起きてしまったんだろう。 言い訳を咄嗟に考えようと思っても、頭はぐるぐると回ってばかり。 「あの、ここここ鼓動を、か、確認しようとしたんです!あの、私、いいいい医者の娘ですから!!」 「そう、か?」 「そ、そうです、山崎さん!そうなんです!」 「・・・・・先ほどは違う呼び方をしていたが」 「え?」 「俺の名前を、呼んでいただろう」 「う、うえぇえ、そ、それは!!」 きっと絶体絶命ってこういう事を言うんだろう。 今度こそ言い訳なんか出来ない。けれど、隠された気持ちを吐くなんてこと、出来るわけがない。 言葉に出来ない気持ちはとても曖昧で、自分でもまだよく分からない泣きたくなるような切ない気持ち。 どうしようもなくて、また鼻の奥がツンとして、咄嗟に袖で顔を隠すと、「ふっ」と彼が笑う声がした。 「君が泣くのを見るのは本意ではない。・・・・できれば、笑って欲しい」 「や・・・山崎さんらしくないセリフです・・・・・・・・誰かに何か、吹き込まれたり」 「島田君にこういえば君が喜ぶからだと」 「〜〜〜〜〜〜!!」 「嬉しいか」 「本当なら!!」 やけくそにそう叫ぶとまた彼が控えめに笑った。 私は真っ赤になった顔を隠すのに必死で、滅多に見れない彼の笑顔をまともに見ることもできず。 「山崎さんの意地悪・・・・」 恨めしい気持ちを込めて、呟くと、 「そうじゃないだろう?」 と、それはそれは意地悪く、口端を上げて、 「俺の名前を呼べば笑うのを止めよう、」 と今度こそ声を上げて笑った。 私は、 滅多に見れない彼の笑顔と 彼の名前を呼ぶ、という究極の選択肢に、 しばらく悩まなければならなくなったのだった。 どっちも、なんて欲張りなことは、まだ、言えないから。 |