いつも優しい顔で髪を撫でてくれるその仕草が好きだった。

その手が実は恐ろしい凶器であることを知っていた。けれど怖くなんかなかった。

その凶器が何をするものか知っていたから。

仲間を、己の誇りを護る為のものだということを知っていたから。

そう言った貴方の事を信じていたから。

私を護る、と言ってくれた貴方のことを愛していたから。












例えそれが刹那の、幻のような逢瀬だったとしても、

私は貴方を愛していた。















序曲2




















目を覚ました時、布団の横に座っていたのは見知らぬ男性だった。

何一つ物の無い和室に胡坐をかいて座っているその男性がかもしだす雰囲気にもしかして、という思いがあった。

巨大な体躯に、素人でもはっきりと分かる王者の器質。

ゆっくりと、本当にゆっくりと身体を起こし、まっすぐその男性の目を見つめる。

その人は私が何か言おうとするのを察して、黙ってこちらを待っている風だった。







「大豪院邪鬼・・・さまですか?」




その問いかけに頷く仕草にすら威厳を感じる。

影慶から聞いた数々の武勇伝が嘘ではなかったことを雄弁に語るオーラ。




・・・・だな?」




同じような問いかけをされ、私は首を縦に振る。

彼も私を知っていたことに少しだけ驚いた。

影慶は決して無口ではないけれど、秘密主義ではある。特に己のことには。

それだけこの人を信頼しているのだとすれば、背中に走る緊張も少しだけ緩まる。






「女の一人歩きは関心せんな」

「す、すいません・・・・」

「何故泣いていた?」






きっと私の太ももよりも太い腕が、こちらへ向かってきて、そして宙で止まった。

何かを考えあぐねているように、邪鬼はじぃっと己の腕を見つめやがてその手を元に戻す。





「すまん」

「何故・・・謝るのですか?」

「気安かった」





それだけ言うと腕を組んでぷいっとそっぽを向いてしまった。

少しだけ耳が赤い。

どうやら部下の付き合っている女性相手に気安く触れようとしたことを謝っているらしい。

そんな様子にいつかの影慶を思い出す。

影慶との付き合いもとてもゆっくりで、最初に手をつなぐだけで随分と掛かったものだった。

男塾、そのほとんどが女性とは無縁の生活を送っているということもあって、皆女性に対しては奥手で誠実。

彼ら塾生にそんな印象を持っていた私は、この人も例外ではないんだと分かって、喉の奥でくすりと笑ってしまった。







「そんな。それよりも助けて下さってありがとうございました」



布団の上で丁寧におじきをする。

頭を下げた瞬間、少しだけ眩暈がしたけれどなんとか堪えた。





「どこが悪い」




私の体調が優れないことを見抜いているらしい言葉が頭の上から降ってきた。

その言葉に私は眉尻を下げ、返答に困ってしまう。

この症状は決して病気ではないのだから。





「医者を呼ぶ」

「い、いえ!」



疑問形でもなく断言されてしまったその言葉に慌てて首を振る。

振り返って私を見るその目はあまりにも鋭く、嘘の一つも許されないことを身に持って知る。





「原因は分かっています。病気や怪我じゃないんです・・・だから」




絞り出すようにそれだけを口に乗せる。けれどその言葉だけでは納得して貰えないようだった。

その先を影慶の上司であるこのこの人に言っていいものかどうか分からない。

言えば影慶の立場を悪くするかもしれない。

そんな考えが、喉から出かかっている言葉に蓋をしてしまう。







「赤子か?」






ふいに出た邪鬼の言葉には驚きで顔を上げた。





「表沙汰にはされておらんが・・・・・俺にも子がいる。
相手は俺が見染めた女で、裏の世界に生きた女だ。
その女が以前見せていた症状に似ていた」

「あっ・・・・あの・・・・」







邪鬼の言葉に驚きを隠せなかった。その余裕が今の私にはなかった。

財界に影響力のある財閥の跡取りだということは知っていたが、まさか既に結婚していたなんて思いもしなかった。

しかも財閥の跡取りならば許婚でもいそうだが、裏の世界の女性とは・・・それをわざわざ口にしたのは、自分に対する配慮のように思えた。

なんの知識もない、一般人の自分でも影慶の傍にいていいのだと言ってくれているようで。

深読み、だろうか?






「影慶は知っておるのか?」




邪鬼の最後の言葉にただ首を振り、彼の次の言葉を待つ。

悟られてしまった以上、もう何を言っても繕えない。それが影慶に不利なことだったとしても。






「何故言わぬ?」




彼の歯に衣を着せないその言葉は私の胸をするどく抉った。

彼の言葉は全てそうだ。躊躇も予断も許さない。だからこそ彼は帝王なのだと知る。

けれど女の不安を吐露するには少しだけ役不足なのだろうと、そう思った。

彼はつま先から頭まで”男”であって、きっと女の気持ちなど理解出来ない。






「怖いんです。もし生むなと言われたら・・・」



それでも問いに答えてしまうのは、きっと自分自身がひどく弱っているから。

少しでも擁護して欲しい、救って欲しいと思っているから。



「影慶に生むなと言われたら生まぬのか?」

「いえ!生みます。例え誰にも認めて貰えなくても!影慶に・・・嫌われたとしても・・・・・」





それは売り言葉に買い言葉だった。

私自身その時、なんの覚悟も決意もしていたわけじゃない。

けれど生まない、なんて心無い言葉を口にしたくはなかった。




「ならば何故泣く」

「・・・・辛いんです。もしこの子を否定されてしまったら、影慶との思い出も、私の存在すら否定されることになる・・・
誰にも、影慶にすら認めてもらえなかったら・・・・・私は・・・・・」




涙が零れる。

それはくやしさ故でも悲しさ故でもなかった。

ただただ不安だった。






貴方の優しい腕が好きだった。

その腕に抱きしめられるのが幸せだった。

優しすぎる口付けにいつも胸が締め付けられた。

貴方を想う度に痛む胸すら、愛おしい。











太い腕が私に向かって伸びてきた。

その腕は今度は止まらずに、私の頬を横滑りし、涙を拭ってくれた。

その仕草は優しく、とても穏やかなものだった。






「貴様は既に母親なのだな」

「え?」

「一心同体なのだろう?腹に在る子と。子の存在の否定は貴様の存在の否定に繋がるのだろう?」





邪鬼のその言葉にただ涙を流す。

何一つ飾らない言葉だからこそ、この人の発する言葉は全て真摯に胸に刺さる。

私は両手で顔を隠し、ただただ泣いた。











しばらくの沈黙の後、すっと邪鬼が立ちあがった。

その気配に顔を上げる。涙で傷んだ目が少し痛かった。







「俺は席を外す。心ゆくまで話し合うがいい」












そう言って襖を開けた、その先には、









誰よりも愛しい人が立っていた。