例えば冬の海に飛び込めと下僕の身で神に命令されたのなら 勿論逆らうことなど出来ないわけで。 君子危うきは逆らわず「榎木津さん!寒いです!!」 「ハハハ、何を言っている!寒くないぞ!!」 十月下旬、伊豆の海。 秋からそろそろ冬へと様変わりする草木を尻目に、二人の男女が裸足で浜辺を歩いていた。 一方はやたら派手なジャケットを羽織ったギリシャ彫刻のように顔の整った男。 もう一方はスカートに黒のジャケットを羽織った女。 バシャバシャと海水に足を浸して水を弄んでいる様はまるで少年少女のようだ。 「もう帰りましょうよーーー寒いです!」 「まだだ!僕はまだ満足していないぞ!」 傍若無人・奇天烈変人―――かの榎木津礼二郎を言葉で表すのは容易ではない。 言葉というもので榎木津を括る事は出来ないからである。 恐らく中野にいる気難しい古本屋以外は―――・・・ 今日の遠出も榎木津の思い付きに偶々探偵社に遊びに来ていたが巻き込まれた結果である。 「神の命令だ!」と言われれば少なくともその場に居る人間に逆らう権限など無いのであって、和寅と益田はご愁傷様と言わんばかりの悲愴な顔で二人を見送っていた。 「満足ってどうしたら満足してくれるんですかーー!」 の叫びが榎木津の耳に届いても、その意味が届く事はほぼ無いに等しい。 バチャバチャと榎木津が海水を跳ねたりするものだから、スカートはすっかり水気を帯びて重くなっている。 先ほどからゾクゾクと背筋を走るものは気のせいではないだろう。 「もう、いい加減に風邪引きますよ!私は帰りますからね!!」 どうにも耐えられなくなり、は一人海から上がろうとした。 と、いきなり襟首を掴まれ思いっきり尻餅を付く。 この場合当然冬の海にダイブしたことになるわけで・・・・ 「何するんですか、榎木津さん!寒い!!」 「ハハハ、ずぶ濡れだな?これで条件は揃ったぞ!!」 「は?条件??なんの条件ですか!!」 とりあえず寒くて仕方ないので海の中から立ち上がろうとすると、榎木津が腰に手を回してそのまま後ろから抱きついてきた。 冷えた身体が重なり合っても、寒いだけだ。 なんとか払い除けようとするが、喧嘩が滅法強い榎木津はビクともしない。 「榎木津さん!いい加減にして下さい!」 「いい加減もさじ加減もないぞ、!!いいか、冬の海で冷えた身体を温めるにはどうする!? ここに二人の男女がいる。そして浜辺の向こうには廃屋がある。 ということはだ!!身体を温めるには二人でそこへ向かうしかない。 そして裸でお互いを温め合うのだ!これはお約束だ!神の定めた運命なのだ!!」 「何がお約束ですか!!」 今解った。 何故榎木津が冬の海に行きたいなどと言ったのか。 きっとこの手の恋愛話かそれに近いネタを何処からか仕入れたのだ。 榎木津自体は恋愛小説を読むような性格ではないから、きっと関口辺りからそんな話を聞いたのだろう。 そうだ。きっと和寅も益田もそれを知っていたのだ。だから榎木津を止めなかった。 この場合の身を案じるよりも己の身の安全を優先したという事になる。 あの二人ィィィーーー!!! 寒さでガチガチと鳴る歯を食いしばって憎き二人に復讐を誓う。 榎木津はの手を無理矢理取って、意気揚々と小屋に向かっている。 止められる人間は誰に居ない。 まさにこれは 絶対絶命 というヤツではないだろうか。 「榎木津さん!!婦女暴行で訴えますよ!!」 「何を言っている!僕はそんな愚かな真似はしないぞ!」 「これがその愚かな事だと言ってるんですーー!!」 ブンブンと繋がれた手を振り回す。けれど繋がれた手が解ける気配はまるでない。 「いい加減覚悟を決めたらどうだ!この僕のお嫁さんということはつまり神の嫁だぞ!という事は女神だ!は女神なのだ!!」 「どういう理屈なんですか!つか、嫁に行くなんて一言も言ってません! 求婚だってされた覚えはありません!!」 そこまで言うと、ハタ、と榎木津の足が止まった。 いきなり止まったおかげでの額が榎木津の肩に体当たりする。 「なんですか、榎木津さん〜〜〜」 「・・・・・・・言ってなかったか?」 「は?」 心底意外そうな顔での顔を覗き込む榎木津は本当に驚いているようだった。 は痛む額を押さえながら、榎木津を見上げる。 「何をですか?」 「僕はに求婚しなかったか、と聞いているのだ。いや、違うな――――さては覚えていないな?そうだな?そうだろう!!」 「は?って?え?」 「なんて事だ!神に求婚されて覚えていないとは!!罰当たりにも程があるぞ!」 「ぇえ?求婚って・・・球根じゃ、なくて・・・・」 「結婚を申し込む方の求婚だ!プロポーズだ!まさか猿の物忘れが移ったのか?」 繋いでいた手が放され、そのまま榎木津の両腕がの身体を抱きすくめる。 耳元に榎木津の吐息が触れ、背中にさっきとは違う悪寒が走った。 「もう、二度しか言わないぞ」 「え、と・・・・はい」 「僕はが好きだ。愛してる。誰にも渡す気は無いし、渡しはしない」 いつもとは違う、低く落ち付いた口調は悪寒と共にの耳元を通り抜けた。 囁くように呟く言葉に腰が抜けそうになる。 縋りつくように榎木津の腰に手を回すと、更にを抱きしめる腕の力が更に強くなった。 「嫌とは言わせないぞ。僕はの気持ちなどお見通しだからな」 最後に非常に彼らしい自信満々な笑みで笑うと、抱きしめていたその腕を解いた。 もうすぐ陽が暮れる。海は朱色に染まりつつあった。 「榎木津、さん・・・」 「なんだ!」 「風邪引きます。だから早く行きましょう」 「それはお約束のアレを僕と二人でやる気になったという事だな」 榎木津の言葉に怒りの言葉すら思い浮かばなかったは榎木津の手を取って、小屋の方角に再び歩き出した。 後ろを振り向かないのはきっと満足そうに笑っている榎木津の表情を見たくないからだ。 負けを認めるのは悔しい。何もかも結局榎木津の――いや、神の思い通りなのだ。 その翌日榎木津とが二人揃って寝込んでいた事は言うまでも無い。 そして三日後にはに復讐された益田と和寅も揃って寝込んでいたとか。 |