ゆっくりと意識が浮上する。 自分が知っているものとは違う固い床、薄い布団、微かに湿気の香りがする部屋。 分かっているはずなのに、自分の部屋じゃないと落胆する、これからずっとこんなことを繰り返さなければならないのだろうか。 ふと横を見れば、全く使用された形跡のない綺麗なままの布団が一組。 あれからあの人はこの部屋に足を踏み入れてはいないのだろう。 自分の知る世界とは違う、この世界の優しさに触れた気がした。 身支度を整えて、部屋の扉を開ける。 そこにはタイミングを計ったように、影慶が壁に背をもたれて立っていた。 まさかずっとここにいたのだろうか、そう思うが聞くのはなんとなく憚れる。 「おはようございます」 「ああ」 軽く目を合わせて挨拶して、影慶がそのまま歩き始めた。 ついていけばいいのか、そう思い、大きな背中の後について歩く。 まだ見慣れない建物の中には竜やガーゴイルなどどちらかと言えば悪趣味なものが多い。 けれど陰惨な雰囲気が感じられないのは、中に住んでいる人たちの人柄を知ったからなのかもしれない。 「よっ、」 「おはようございます」 まだセット前なのか、多少形の崩れたモヒカン頭がゆっくりと欠伸しながら現れた。 首にはタオル、ジャージに上半身裸の姿になんとなく目のやり場に困ってしまう。 その身体は深夜の通販番組に出てくるボディービルダーのようだ。いや、もしかしたらそんなものよりずっとすごいかもしれない。 「なんだぁ?まだ寝ぼけてるのか?」 「あ、いえ、」 「朝飯食いに行くんだろ?」 そう言って腰に手を回す卍丸の仕草は至って自然なものだった。 逞しい胸板に顔が引き寄せられるまで気付かなかったほどの。 男性特有の匂いにどうしたらいいか分からず、思わずぎゅっと目を瞑る。 「卍丸!控えろ!」 「何をだよ?」 影慶の怒声が廊下に響いた。 古く、まるで講堂のような建物は比較的声が響きやすい。 その声に卍丸のおどける声が重なって、朝とは思えないほどの賑やかさが耳に広がった。 「朝から賑やかだな」 するりとと卍丸の間に入りこんだのは、センクウだった。 卍丸という人間などまるで存在しないかのような振る舞いで、をその腕から救い出す。 「てめっ!何しやがる」 「朝の挨拶だ。おはよう、」 「おはようございます」 にこりと頬笑むセンクウは、お姉さま方はもとより、おばさま方に大変もてそうだ。 逞しい体格は皆と変わらないのに、どこか優雅な雰囲気を漂わせるセンクウはどう見ても日本人には見えなかった。 「俺の顔に何かついてるか?」 「い、いえ・・・・なんでも」 「聞きたいことがあるなら、遠慮しなくていいんだぞ」 そう促されて、慌ててブンブンと頭を振る。 どうも、この人は他人の心の内を読むのに長けているらしい。 それでも柔らかな物腰でいてくれるおかげで、威圧的な感じはしない。 「あ、そういえば・・・・・」 「なんだ?」 「影慶さん、私が寝た後、隣で寝ましたか?」 影慶が、あの後気を使って一歩も部屋に入っていないことはもう知ってる。 それでもそう聞いたのには理由があった。 「・・・・・いや。何かあったのか?」 突然話を振られた影慶は、その答えに少々バツが悪そうに答えた。 予想した通りの答えに少し笑いながらも、昨日の晩のことを思い浮かべる。 「なんだか・・・・寝ている時に・・・誰かが傍にいたような気がして・・・」 「なに!?」 の言葉に影慶は声を荒げた。卍丸とセンクウも途端に厳しくなる。 「あ、いえ、私の気のせいか・・・・夢だったかもしれないんですけど・・・」 「おい、ちゃんと思い出せ。そりゃあ、お前が思っているよりも重要なことだぞ」 思っていた以上の過剰な反応に、は驚いて両腕で自分の肩を抱きしめた。 空気が変わるのが目に見えるように分かる。 漫画や小説などでよく言う殺気というのは、こういう雰囲気を言うのかもしれない。 「あ、あの・・・・私・・・・」 「、すまない驚かせたな。少し話を聞かせてくれないか?朝食を食べながらでいいな」 怯えた様子に気づいたのか、センクウがそう言っての肩に手を回す。 大丈夫だ、というように背中を軽く叩かれ歩くことを促された。 けれど、優しいながらもどこか強制力のある仕草に顔を上げると、そこにはさっきまでいたはずの影慶と卍丸がいなかった。 「あの・・・二人は、」 「・・・・気にするな。仕事に行っただけだ」 そう言いながらもセンクウはまだ険しい顔をしていた。 きっと卍丸と影慶も同じような顔をしているに違いない。 失言だっただろうか、と視線を下に落とす。 けれどその失言がどんな意味を持つかまでは、には分からなかった。 の前から姿を消した影慶と卍丸は、共に影慶の部屋に戻っていた。 卍丸が窓から身を乗り出し、外壁や窓枠を調べる。 「どうだ?」 「窓から侵入した形跡はねぇが・・・・出来ねぇこともねぇな」 「例えば?」 「此処は最上階だからな。てっぺんまで登りゃあ、あとは降りるだけだろ」 「他には?」 「俺らもすぐ傍にいたお前も気付かなかった、つーのがな。引っかかるぜ」 気配を殺す、というのはある域に達した者ならばそう難しいことではない。 だがそれは通常の状態での場合だ。 高所への侵入など肉体的・心理的に負荷のかかる状態で完璧に気配を消し尚且つそれを気取られないというのは通常では考えられない。 仮にあり得たとしたら、それは影慶達よりも遥かに強い人間ということになる。 「気のせいじゃねぇのか」 「それで済めば苦労はせん。それに例の刺客の件が気にかかる」 「確かにな。お前がそっちに気を取られている間に、侵入したってことか」 「だが、攫われたわけでも、攻撃されたわけでもない。敵の意図が見えん」 「まだ何もされてねぇって決まったわけじゃねぇぜ。本人が気付いてねぇだけかもな」 「それは・・・・」 影慶の目が曇った。 確かに、気付いていないだけで肉体的に何かされた可能性がないわけではない。 寝ている女に触れる、それがどんな意味を持つかなど言うまでもない。 誰の責任かなど明白だ。 影慶は眉間に皺を寄せぐっと拳に力を込める。 「外からの侵入経路を洗い出す必要があるな」 「おう、そっちは任せろ」 「俺は邪鬼様に報告に行く」 「おう、任せた」 影慶は早足で部屋を出て行った。 卍丸はその姿にため息をつく。 自らの失態を自ら主君に報告する。他人にさせることも出来るのにも関わらず。 その生真面目さこそが影慶が将たる所以なのだが、それは時として己を追い詰める原因となる。 つねづねどうにかしてやりたいと思うのだが、こればかりはどうしようもない。 何しろ他人の性格を変えてやれるほど、自分も、他の連中も器用じゃないのだ。 「さっさと終わらせての酌でうまい酒でもかっくらうとするか」 その考えを頭から振り払い、卍丸は窓枠に足を掛けた。 |