「入れい、影慶」 それはまるで罪人を裁く、死出の門のように。 風散の影影慶が邪鬼の部屋を訪れると、邪鬼は一目で風呂上りと分かる格好で特注のベットに腰掛けていた。 軽くタオルを頭に被せ、しっとりと濡れた髪からは雫が垂れ、何も着ていない上半身を濡らしている。 その無防備な様は普段ならば誰にも見せぬ姿だ。 ノックをし、許可を得て部屋に入ったものの、影慶は自分が何か見てはいけないものを見た気分になった。 足はまだ一歩たりともドアの前から動いてはいない。 戸惑う影慶を誘うかのように、邪鬼はちらりと影慶を一瞥した。 「影慶、髪を拭け」 「はっ!?」 「聞こえなかったか?髪を拭けと言っておる」 邪鬼の言葉に影慶は慌てて固まってしまった足を動かした。 途中足がもつれそうになりながら、邪鬼の前に立つ。 邪鬼はタオルを頭に被せたまま目を閉じている。 まるでこちらの行動を伺っているかのように。 「失礼します」 向かい合う形でベットの上に座っている邪鬼の頭から左手でタオルを取る。 左手に重心を置き、タオルで邪鬼の髪を撫でるように拭いていく。 皮手袋をしているとはいえ右手は使いたくはなかった。 他人の髪など拭いたことがあるわけもなく、ただ邪鬼を傷つけぬように手を動かす。 「影慶」 「はっ」 邪鬼が顔を上げ、影慶の右腕を掴んだ。 その行動に思わずたじろぐ。掴まれた右腕は毒手だ。 「じゃ、邪鬼様っ!」 「そんな拭き方では夜が明けるぞ」 「お放し下さ―――っ」 「何故だ?この腕も俺のものなのだろう?」 まるで肉食恐竜のように、邪鬼が笑いながら影慶の右手を覆う皮手袋に噛み付いた。 そのまま歯で手袋を咥えたままゆっくりと引き抜いていく。 影慶は下手に動くことが出来ず、邪鬼の行動をただ凝視することしか出来なかった。 皮手袋は少なくともひと月は使っており、包帯の上からしているとは言え毒が染み付いているかもしれないからだ。 万が一、毒素を口に含みでもしたら、いくら邪鬼とはいえひとたまりもない。 「邪鬼様、お放し下さい」 影慶はガタガタと、自分の右手が震えるのが分かった。 だが邪鬼は気にすることなく、口を使って皮手袋を最後まで引き抜く。 影慶の腕はまだ邪鬼に掴まれたままだ。 「じゃき、さま・・・」 「何故震える?俺が怖いか」 皮手袋が二人の間に落ちる。 邪鬼は笑っていた。 その笑みの意味するものがなんであるか、余裕のない影慶には分からない。 一体何故自分が此処にいるのか、それすらも分からないままだ。 「お戯れは・・・お止め下さい」 「戯れでなければいいのか?」 邪鬼が突然影慶を見上げた。 その鋭い瞳に、心臓がわし掴みにされたような錯覚を覚える。 思わず目を瞑る、その瞬間掴まれていた右手を思い切り引かれ、身体が反転した。 「邪鬼様!!」 「戯れでなければ良いのだな?」 ベットの上に組み敷かれ、邪鬼が自分の身体の上に馬乗りになったのが分かった。 影慶の耳元で何かを確かめるように、邪鬼はもう一度同じ言葉を紡ぐ。 影慶は目を開く事が出来ず、ただそれに耐える。 「答えぬか。それでも良い」 邪鬼は笑いながら、影慶の瞼を舐めた。 そして、まるで目玉をえぐるかのように、執拗に、瞼のふちを、睫毛を、じっとりと舌で弄ぶ。 それでも影慶が目を開かぬと分かると、邪鬼の視線は包帯が巻かれた右手へと注がれた。 「邪鬼様!!」 影慶はその視線に気付き、慌てて右手を自分の身体の下に隠した。 その様を見て、邪鬼が声を出して笑う。 「さすがに勘が良いな、影慶」 「も、もう、止め、」 「止めて欲しいか?影慶」 「はっ、はい」 影慶の身体の上には四つんばいになった邪鬼が覆いかぶさっている。 その大きすぎる身体は光を遮るのに充分で、影慶の目には邪鬼の姿が逆光となっていた。 影となって邪鬼の表情が読めない。それが影慶に更なる恐怖を与える。 「ならばどうすればいいか分かるな?」 「い、いえ―――」 「分からぬか。思った以上に堅物だな」 邪鬼の言わんとする事が、影慶には分からなかった。 ただ頭が混乱して、冷静にならなければと思うほどに、身体も頭も動かなくなっていく。 その様子をただただおかしそうに見て、邪鬼は笑う。 「一から教えるのもまた一興か」 「じゃき・・・さま・・・」 「俺の考えていることが分からぬか?」 「は・・い・・・」 もはや全ての主導権が邪鬼に握られていた。 シーツの上でもがく事も出来ずに、絡み合った足と足の付け根から、邪鬼の熱が伝わってくる。 下を向くことも許されず、身体も視線すらも邪鬼に絡め取られ、影慶の何もかもが一人の男によって支配されている。 「俺も貴様の考えていることが分からぬ」 「じゃ・・き・・さま・・・・?」 「どうすれば貴様の心の内を知ることが出来る?」 その言葉を吐き、邪鬼は影慶を開放した。 拘束していた腕や足を解き、ベットから下りる。 「俺を軽蔑するか?影慶」 投げ捨てるようにそう言った言葉に、影慶は答えることが出来なかった。 軽蔑など出来るはずもない。だがベットの上に投げ捨てられた身体は動かない。 喉が震えるだけで声は音にはならない。 影慶の目から涙が零れた。 それは自分の意思と反して身体が動かない、そのくやしさ故だった。 だが邪鬼はそれを見た瞬間、そのまま振り返ることもせず、静かに部屋を後にした。 開け放たれた窓から、木の葉が舞い、残された男の涙を隠すように、静かに影を落とした。 |