いつもここに来てしまうのは優しい雰囲気と。



和やかなその笑顔。










遠くない未来、いつか君に












「こんにちはー」








うつろうつろ、と意識が遠のいて来た頃、少し高い声が耳元に届いた。

ゆっくりと瞼を開けると、目の前には彼女の笑顔。

何が嬉しいのだろう、と思ってしまう程眩しい、その笑顔。




「ああ、ちゃん。いらっしゃい」

「はい、いらっしゃいました」




手にしていた釣竿を落しそうになって、慌てて竿を握り直す。

くすくすと笑い声が聞こえて、年甲斐もなく顔を赤らめた。




「大丈夫ですか?」

「うーん、ちょっと寝ぼけていたかなぁ」




平日の午後。当然ながら客はなく伊佐間は一人自分の釣堀で釣りを楽しんでいた。

かといって目的は釣りではなく、太公望を気取ってみる。

目の端には自分が創ったオブジェという名のガラクタが飾られている。





「今日はどうしたんだい?仕事は?」

「ええ、外回りのついでに寄ってみました。お昼、一緒にどうですか?」

「お昼・・・・・ああ、そうか。もうそんな時間かぁ」






気付けばもう十二時を回っていた。また随分とぼんやりとしていたらしい。

彼女を見ればスーツ姿に右手に大きな封筒を抱えている。

以前実家の小さな会社の仕事を手伝っていると聞いたことがある。



「伊佐間さんらしいですね。これ、取引先で頂いたので」



そう言って掲げたのは二人分のお弁当。

こっそりもう一人前貰ってきちゃいました、と笑う。




「ああ、ありがとう。タダよりうまいものはない、かな?」

「そういうことです」

「じゃあ店の中で食べようか」




釣竿を片付けて、二人で店の中に入る。

昔はこんな汚い場所に彼女を入れていいものか迷ったが今は気にしない。

が手馴れた手つきで急須やらお茶の葉やらを棚から取り出す。

今では伊佐間よりも台所に詳しくなってしまった。




「悪いねぇ」

「いえいえ、いつもの事ですから」




おどけたように笑う彼女の言葉に、なんだかむず痒いような気持ちになる。

いつもの事、というにはそれなりの付き合いがあったわけで。






と言っても男女の付き合いなどではなく、ただの茶飲み友達で。






その関係が歯痒くもあり、心地良くもある。






愛しくはあるが、抱きしめたいとは思わない。

少なくとも彼女がそれを望まないのなら。

そもそも自分にはあまり執着というものがないのかもしれない。




例え他の男の隣で笑っているとしても、彼女が幸せならばいいと思う。





「はい、どうぞ伊佐間さん」

「ああ、ありがとう」

「熱いから気を付けて下さいね」

「うん」





彼女の入れてくれたお茶を飲みながら、二人で弁当を突付く。

他愛無い話をしている時間が伊佐間は好きだ。

ゆっくりと時間が過ぎてゆく。




「あの・・・・伊佐間さん・・・・」

「? どうかしたの?」




ふいに会話が止まった。

彼女を見ると何か言い難そうに視線をあちこちに飛ばしている。





「なんだい?」


その仕草がまるで怒られる前の子供のようで苦笑する。

箸で弁当をあちこち突付いて、落ち着きがない。

こんな所も可愛いな、と思う。



「あの・・・・私・・・・父に御見合いを勧められてるんです」

「え?」

「会社の取引相手の人で。その・・・どうしたらいいと思いますか・・・?」




二人の間に冷たい風が通り抜ける。

窓が開けっ放しになっている。もうすぐ秋だ。




「伊佐間さん・・・・」




自分を呼ぶ彼女の声に伊佐間は一瞬眩暈を覚えた。

どうしたらいいのか、と言われてもどうしたら良いものか。



そりゃもちろん、彼女が結婚する事は喜ばしく、また悲しくもある。

取引相手、ということは邪険には出来ないということだろう。

会社の事情も多少なりとも絡んでいるのかもしれない。





「うーん」




自分でも間抜けな声を出してしまったと思う。まるでどうでもいいみたいだ。

けれど彼女は顔を上げて笑った。





「すいません、困りますよね。こんなこと言われても」

「いや、違うんだ。そうじゃなくて――・・・」

「いいんです、ごめんなさい」




伊佐間の弁解を一刀両断するようには強引にその話を終わらせた。

まだ食べかけの弁当の蓋を閉めると、入れてきた紙袋にそれを仕舞う。




「そろそろ時間なので、じゃあ失礼します」




がいつものように礼儀正しく一礼する。けれど、その声はいつもよりやや低め。

何か言わなければ、と思うが焦って言葉が出てこない。



そもそも色恋沙汰などには疎いのだ。おそらくは木場の旦那よりも。

気の利いたことなんて言えないし、ましてや自分の気持ちさえはっきりしていない。




それでも。





「僕は・・・・」

「え?」

「僕は・・・あんまり喜べないな」





思ったことをすぐ口に出してしまうのが悪い癖だという自覚はある。

思ったことしか口に出さず嘘が付けないのが欠点だという自覚もある。





「だから・・・ごめんね、ちゃん」






何一つ気の利いた事なんて言えないけど。

今を懸命に生きている彼女をこの腕の中に縛り付けるなんて事出来やしないけれど。







いつか色褪せてしまう想いだとわかってはいるけれど。







それでも彼女の笑顔が見れなくなるのはとても寂しいから。









玄関に立った彼女の顔を恐る恐る見上げる。

彼女は伊佐間の好きな笑顔で笑っていた。



「どうして謝るんですか?」

「ええと、うーん・・・」

「伊佐間さん」

「うん」







「御見合い断わりますね」






意志の篭った声でそう言うと、彼女はもう一度頭を下げて出て行ってしまった。

走り去る彼女の背中はあっとう間に消えてしまう。

けれど彼女の笑顔は焼きついたままで。










例えばいつか色褪せてしまう想いだとしても。

巡る巡る季節の中で。

彼女への想いを新しい色に塗り替える事が出来たのなら。






彼女との関係も変える事が出来るのだろうかと。








伊佐間は一人、冷めたお茶を飲み干した。










後日榎木津と顔を合わせた瞬間、「据え膳食わぬは男の恥だ!」
と罵られたのは別の話。











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伊佐間さんはいい人だ!というお話(笑)