つわりなんて症状、どんなものかも知らないし。




第一覚えなんて・・・・・・・実はたくさんあるのかもしれない。













もしも私が妊娠したら〜〜中禅寺秋彦の場合〜〜













「なんか・・・・気持ち悪っ・・・・・」






それは会社の昼休み時。

大好きなカツ丼を目の前にしてなんだかすごく気分が悪い。




「ちょっと大丈夫ー?」



同僚が背中を擦ってくれるけれど、一向に気分は良くならない。

それどころか胃から何か込み上げて来るものがあって、どうにもならず席を立った。





「うえっ・・・・」





まだ一口も食べていないのだから、当然吐き出されるのは黄色い胃液。

出すものがないのに嗚咽を続け鳴ればならないのは思ったよりも苦しくて、何度も何度も咳き込む。

同僚が心配してトイレまで来てくれたけれど、その問いかけに答える余裕も無い。





、もう昼休み終わっちゃうよ。私課長に言っとくからもう帰りなよ」




そう言って渡された鞄。仕方なく頷くと彼女は不安げにもう行かなくちゃ、と時計を見た。




「ごめんねぇ・・・・」

「いいから。もしダメっぽかったら病院行きなよ。明日は丁度日曜だし」

「うん・・・そうする」

「じゃあ、気をつけてね」





申し訳なさそうにトイレから出て行く彼女の背中を見ながら、また胃に込み上げて来るものがあって流し台にしゃがみ込む。

もう胃液すら出ないようで、ぼぅっとする頭と身体を抱えてなんとか店から出てタクシーを捕まえた。













「なんなのよ、もう・・・」








あれからなんとかタクシーを捕まえて自宅に戻った。

敷きっぱなしで出て行った布団に寝転ぶ。

だらしないと一人暮らしの様子を見に来たよく母親に叱られたけれど、こういう時には役に立つ。

大体この部屋なんて寝に帰っているようなものなのだ。

けれど介抱してくれる人がいないというのはやはり寂しい。







「中禅寺さん・・・・何してるかなぁ」







介抱してくれる人物・・・とはほど遠い恋人である中禅寺を思い出した。

仕事が忙しくて最近会っていない。最後に逢瀬を重ねたのは二週間前だったか。

今だ中禅寺と姓で呼ぶのは彼が自分に比べてあまりに優秀な人材であることと、同世代にも関わらずまるで二人が師弟のような関係であるが故。

あまり知識豊富でないは関口と共に事あるごとに中禅寺にお叱りを受けている。

彼にしてみたら愛情の裏返しなのかもしれないけれど。


身体は重ねてもあまり恋人らしいことはしてくれない。

最近は特に念願の古本屋を開業させた為、会社員の自分よりも忙しそうなのである。







・・・・・・結局本には勝てないのね・・・・






書痴の彼氏を持ったが最後。

書物に嫉妬するなんて情けないけどしょうがない。

ごそごそと布団を被って天井を見上げる。・・・・気持ち悪っ・・・




「はぁ・・・寝よ・・・・」





















意識を取り戻したのは夕刻だった。

時計の規則正しい音に目を開けると夕暮れの赤が窓からちらりと見える。

結局吐いただけで何も口にしていないからお腹は空いたし喉はカラカラ。

けれどどうにも起き上がる気にならなくて、溜息を付いただけで終わった。






「ああ、起きたか。水を飲むかい?」

「え・・・ああ・・・頂きます・・・って中禅寺さん!?」




そこにはまるで当たり前のように不機嫌な顔をした中禅寺秋彦がコップを持って立っていた。

いや、待って?ここ私の部屋よ?




「君の同僚が電話をくれてね。全く病院にも行かず連絡もせずに一人でどうするつもりだったのか聞かせて欲しいものだね」


私の言いたいことを察したのか、コップをテーブルの上に乗せて中禅寺さんが言った。

私には分かる。これは本気で怒ってらっしゃる。

額に刻まれた皺の数は半端じゃない。ついでに纏っているオーラも。




「ごめんなさい・・・・」


とりあえず謝っておこうと寝転がりながら頭を下げる。

中禅寺さんはコップを手に取ると私の口に運んでくれた。




「いいから飲みなさい。随分吐いたと聞いたが何か食べたかね?」

「いえ・・・何も・・・」

「という事は薬も飲んでないのか。全く・・・・症状はどうなんだい。熱はあるのか?」




額にひんやりとした感触がして、中禅寺さんが私の額に手を当てていた。

しばらくして、ふむ、と納得したようにその手が離れる。




「熱はないね。食中毒でもなさそうだが・・・・自覚症状は?」

「えっと・・・吐き気だけみたいです。お昼食べようとしたらなんだか気持ち悪くなって・・・
それまでは全然大丈夫だったんですけど・・・・」




そこまで言って微妙に中禅寺さんが固まった事に気付いた。

何かぶつぶつと呟いている。



「君・・・・・月のものは何時だったか覚えているかい?」

「月の・・・それって生理!?・・・・はいっ??」

「いいから考えたまえ。何時だった?」




どうして突然そんな事をいうのか。

けれど真剣な顔の中禅寺さんに、とにかく思い出そうと頭を捻る。

確か先月は・・・・・・・・・・・・





あれ?





ちょっと。





もしかして。










「来てないかも・・・・・・・」








今月と先月の予定日・・・・・とっくに過ぎてる!!








「私・・・二ヶ月来てないかも・・・・・」






慌てて中禅寺さんを見る。覚えはあり過ぎる程ある。

どうしようこれってもしかして・・・・・






「やだ・・・どうしよう・・・」






突然の事に泣きそうになりながら、中禅寺さんを見る。

彼はそうか、と呟いただけで黙ってしまった。

もしかして迷惑だって思ってる?

もしも―――もしも本当に妊娠してたとしたら、貴方は堕ろせと言うの?






「とにかく明日病院へ行こう。もちろん僕も付いていく」






病院?行ってどうするの?真実を確かめて――――それで貴方はなんて言うの?







「なんて顔をしているんだい、君は」





またも私の表情から言いたいことを読み取ったのか呆れたように彼は溜息を付いた。

その仕草にびくりと肩が震える。


お願い、言わないで。拒絶の言葉なんて聞きたくない。





「まぁ予定が早まったが――――これはこれで良いだろう」





「・・・・・え?」





何がいいの?予定って?






「なんて顔してるのかね、君は。まさか僕が堕ろせというとでも思ったのかい?」

「だって――――・・・・」

「全く見くびられたものだね。妊娠なんて後か先かの問題だろう。先に出来たって大した問題じゃないさ。目出度いことなら特にね」

「なんの・・・話を・・・」

「結婚に決まってるだろう?本当は店が軌道に乗ってからと思ったが、まぁいい。結婚式は―――お腹が目立たない内がいいね。ご両親への挨拶もあるし、会社の事もあるだろう。これから忙しくなるな」






そう言って壁のカレンダーを見つめながら、何処か嬉しそうに―――彼は言った。

なんだか急に可笑しくなって私は笑った。気持ち悪さなど何処かへ吹っ飛んでしまったようだ。




「まだ・・・・妊娠したと決まったわけじゃないですよ」

「それでもいいさ。それも時期が遅いか速いかの違いだろう」

「中禅寺さん・・・・私でいいんですか?」





枕に頭を沈めて、私は中禅寺さんを見た。

彼は何を言ってるんだと、私の頭を撫でる。





「その呼び方をいい加減どうにかしなければな。君も中禅寺になるんだ、可笑しいだろう?」

「質問の答えになってないですよ」

「言わなければ分からない程君は愚かじゃないはずだ」

「それでも言って欲しい時もあるんです。私は言葉が欲しい」







我が侭を言ったという自覚はあった。

けれど彼は怒らない。私の予想通り彼は困ったように笑って―――







「生涯を共にする相手は君以外に考えられないよ、




「私もです、秋彦さん」













翌朝二人で病院に行った所、結局ただの体調不良だということが分かった。

その気になっていただけにがっかりしたけれど仕方が無い。









それに結局遅いか速いかの違いなのだから、焦ることはないのだ。











今、私の左手の薬指には真新しい指輪が光っている。