「あ、」



カリ、と嫌な音がして、目に入ったのは鮮やかな赤だった。

は自分の持っていた櫛が彼の人を傷つけてしまったのだと気付き青ざめた。

















歪んだ三角形の始まり













大したことはない、と言い張る山崎の手に薬を塗りながらは謝り続けていた。

部屋で髪を梳かしていた最中に名前を呼ばれて振り返った瞬間、その櫛が山崎の右手の甲に当たってしまったのだ。

瞬間、猫の爪に引っかかれたような紅い朱線が山崎の肌に浮かびあがる。

無言で少しだけ顰められた目に、は心底泣きそうなった。






「本当にごめんなさい、私の不注意です」

「大したことはない、と言っている」

「でも・・・でも・・・・」




薬を持っているの手が震えてしまうほど動揺しているのには訳があった。

は、山崎に想いを寄せていた。

それは決して悟られてはいけない想いだと知っていたけれど、それでも流れゆく日々の中で少しでも彼の姿を視界に収めることだけが、狭い屯所の中でしか生きることを許されていないの唯一心の拠り所であり、また救いであった。





そんな人を故意ではないしろ傷つけた。

ああ、きっと、嫌われてしまった。

それでなくても面倒ばかりかけているというのに。

こんなことで泣けばまた迷惑だからと涙を堪えても、どうして目尻が熱くなるのが止められない。







君」





深いため息と共に他人行儀に名前を呼ばれれば、びくりと肩が震える。

顔を上げれずにいると、山崎が音もなく立つ気配がした。




「仕事がある。これで失礼する」




そう言い放ち、振り返ることなく去っていく山崎の背中をはただ見つめるしかない。

急に身体が重くなった気がして、はそのまま畳に横になり、零れる嗚咽をそのままに強く強く瞳を閉じた。














彼のことが好きだと自覚したのはいつのことだったか。

初めて会った時は、暗がりの中顔も見えぬ黒装束に怯えた。

けれど護ってくれた。伝令に走る最中、私を励まし、文字通り貴方は命の恩人となった。

二度目に会った時、唐草色の着物を着た整然とした貴方に自然と背筋が伸びるのを感じた。

昼に会う貴方は厳しいながらも優しくて、夜に会う貴方は力強くて、凛々しくて。

そのどちらの姿も、私の心を翻弄する。その存在にくらくらと眩暈がして息の仕方さえ忘れてしまう。

手を伸ばしてはいけないと知りながら、指先が動く。

魅入られてはいけないと分かっていながら、貴方を探す。





























どれほどの時間が経っただろうか。

声も立てずに泣き疲れて寝てしまったようで、気だるく瞼を開くとそこには黒い影が見えた。








「何故、泣いている」



上から聞こえた声に、ああ、これは夢の続きだろうかとは思う。

起き上がろうにも気力がない。

畳にうつ伏せたまま、は手だけを山崎の右手に伸ばし、そしてその手を握った。




「山崎さんの手を、傷付けてしまいました」

「手・・・・?」

「私なんかが触れていいものじゃなかったのに・・・・・」





はそう言って、ゆるゆると指先で山崎の甲を撫でた。







(・・・・・・――――――!?)







そこで、気付く。

の手には乾いた男の肌の感触ある。けれど、傷が、ない。

慌てて起き上がる。

夢じゃなかった。確かに自分は今しがた起きて、そして目の前には忍装束に身を包んだ山崎がいる。






けれど、ない。

半日で消えるはずもない、右手のひっかき傷が、目の前の山崎にはない。






「山崎さん・・・・傷・・・・は?」

「俺には君が何を言っているのか分からないが」

「あの・・・・だって、昼・・・・」






昼間、と言いかけたところで山崎が、くっと、喉で笑った。

触れていた右手を振り払われ、その手はそのままの顎を捕える。





「その話は聞いてなかった。迂闊、だったな」

「・・・・・や、山崎・・・さん・・・ですよね・・・・?」






急に違えた山崎の雰囲気に、は混乱した。

確かに山崎だ。違いない。知っている。知っている・・・・・・けれど、知らない。



山崎はの腰を左手で掴み、右手で素早く口を塞いだ。

を後ろから抱きしめた格好で、そのままの肩に顔を寄せ、耳元で囁く。







、死にたくなくば俺の言う事をよく聞け」

「え・・・・?え・・・・?」

「組織にはいくつも秘事がある。羅刹隊然り、そしてこの俺もまた然り」

「山崎さん・・・・・?」

「俺は山崎に違いない。だが君が思っている人間ではない」






そう言うと、山崎は指で輪の形を作り、すっとその指を吹いた。

音は聞こえなかった。けれどその合図に呼ばれたように、姿を現した影があった。














それは少し慌てた様子の、いつも昼間会っている、山崎であった。

そしてその右手には、あの、朱が、証のように刻まれていた。