水が、死んでいる。

目の前の濁った川の流れを見て、周泰はわずかに表情を固くした。

郷である呉は美しい水の流れに囲まれた賑やかな土地だった。

元は水賊の出であった自分が言うのはおこがましいが、美しい土地だったと思う。

だが目の前の光景はどうか。



異国同士が混じり合い、見慣れたはずの景色さえ異形と成り果てた。

人々の心は荒み、争い、嘆き悲しみ、地に堕ちていく。



死んでいる、この世界のなにもかも。




寡黙な男は何かを呟く。

だがそれは誰の耳にも届くことなく、空気に溶けてしずかに―――――落ちた。











絆IF物語。もしもOROCHIの世界に落ちたら4














国は呉、孫権の護衛武将、周泰、字は幼平。

長身に色黒、無表情で寡黙、まさに壁のようだと笑ったのは彼の主君である孫権だった。

彼の誇りはその主君の元を一時も離れず、彼を護り抜いた証である無数の傷であった。

だがその彼の傍に今主君はいない。

孫権は父親の孫堅を守るためにOROCHI軍に残り、周泰をOROCHIを倒す為の戦力として、孫策の元へ行かせた。





歯痒い。





己の使命は主君を護ることにある。それが己の誇り。

それなのに何故、己は主君の傍にいないのか。

自分の身の安全よりも呉の未来を優先した、それが孫権の意思なのだと知っている。

けれども。

割り切れない何かが在る。孫権を護る、それだけが己に与えられた使命であるはずなのに。





――――――歯痒い。





周泰はギリリと奥歯を噛みしめた。何故、いない、何故存在しない。この巨躯は一体何の為に。

ジリジリとこの身を焦がす焦燥感に、周泰は目の前の枯れ木に向かって剣を抜く。

まさに疾風の如き剣は一瞬に目の前の景色を刈り取り、枯れ木は空を舞い、水の流れに巻き込まれ沈んでいく。







「きゃっ!!」

「!?」





ふいに聞こえた女の声に、周泰は素早く身を反転させ抜き身の愛刀を構えた。

荒んだ景色と共に目に映ったのは、若い女。足元には大きな籠と衣類が散乱している。

川で洗濯でもしようとしていたのだろう。どうやら周泰が刀を抜いたことで驚かせてしまったらしい。

女は周泰に軽く頭を下げると、散らばった衣類を拾いだした。




「失礼致しました」



全てを拾い終わると女はもう一度頭を下げて礼をした。

三国の礼の作法ではない。女の仕草は日ノ本の国のものと思われた。

だが身につけている衣服は三国のものだ。色味からして恐らくは、蜀。

しかしこの土地に蜀の民はいない。いるのは孫策率いる呉の軍と、会合で合流した魏中心の夏侯軍だ。


――――――矛盾している。

まさか敵とは思えなかったが、周泰は刀を鞘に納めながらも柄からは手を放さずにいた。

女はこちらを気にするでもなく、川に足を入れ腰を下して衣類を取りだす。

この土地では飲み水は井戸に頼るが、他の水は川に頼るしかない。

いくら故郷と比べて汚れていると感じても、水源は限られているのだ。



女は周泰のことなど気にせず、己の仕事に熱中していた。

背後を取られていても気にも留めていない。その警戒心の無さに内心ため息をつく。

どこに敵がいるかわからない。まして若い女ともなれば女に飢えた兵や賊に襲われないとも限らない。

周泰はちらりと視線を動かす。他には誰もいない。本当に一人で来たらしい。

この世界にきてどこにいても感じる不穏な風に周泰は動きを止め、女を見つめた。

周泰が知らないのだからきっと夏侯軍の者だろう。放っておくのも薄情だ。

女の姿を目の端に止めながら、周泰は適当な岩の上に腰を下す。そして黙って時が過ぎるのを待った。





















はようやく手元の洗濯物が全て洗い終わったことに笑みを零した。

こうして考えると洗濯機を考え出した人物は本当に主婦の味方だと思う。

腰を曲げたまま川に向かって屈みこんでいたものだから、背骨全体が軋んで悲鳴を上げている。

きっと昔の人はこの程度じゃ根をあげなかっただろう。痛む身体をラジオ体操をするように上下左右に回すと視界に黒いものが映った。



「あ、」



思わず出た声はきっと届かなかっただろう。

先ほどの目の前でいきなり剣を抜いた人物が岩に腰を下してこちらを見ていた。

魏延を超える大きな背丈に全身黒ずくめ、顔には傷が走っている。

現代であったらさぞかし黒スーツが似合っていただろうと思わせる風体はなんとも言えず迫力があった。


だが彼はどうして岩に腰を下ろしこちらを見ているのだろうか。

洗濯を始めてからかれこれ30分は経っている。その間ずっとそこにいたのだろうか。

頭に浮かびあがる疑問と洗濯籠を持っては川を上がった。そして夏侯軍が天幕を張っている方角へ歩き出す。

すると男も腰を上げ、から距離を取って同じ方角へ歩き出した。







男はなにも言わない。

ただ二人の足音だけが渇いた風に乗って耳に届く。

なにかしら。

頭に浮かんだ当然の疑問。







が思いきって振り向くと、男はぴたりと足を止めた。


































女が川から上がり歩き出すのを確認して周泰も腰を上げた。

歩き出した方角は孫策軍ではなく夏侯軍の方角。やはり女は夏侯軍の者だったようだ。

このまま女が夏侯の天幕まで戻るのを見届ければ良かろうと周泰も歩き出す。

だがその途中で女が突然振り向いた。自然と周泰の足がぴたりと止まる。

女は周泰の顔をじっと見つめた。そして一つ、首を傾げる。

その瞬間周泰は顔を顰めた。何故女が振り向いたかに気付いたからである。








客観的に見れば。

見知らぬ大男が自分の傍に長いこと居座り、そしてあとについてくれば不審に思わないはずはない。

しまったと思いながらも周泰からすれば善意から出た行動である。

だがそれを言葉にする術を周泰は持たなかった。

悲鳴を上げて逃げられても仕方のない状況で、周泰は女が行動を起こすのをじっと待つ。



「・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・」



周泰は何も言わない。

そして女も何も言わなかった。



お互いに何も言わないままでいると、女は何を思ったのか静かに歩き出した。

だがその速度は先ほどと変わらずのんびりとしたもので、周泰はその後ろを歩いていいものか戸惑う。

するとそんな周泰の心中を見抜いたかのように、女が再び振り向く。

そして男には出来ない柔らかな仕草で一つ、瞬きをして。




「よろしければお隣どうぞ」




と言って笑った。



























何故こんなことになったのだろうか。

自分よりも遥かに小さい女を見下ろしながら、周泰は思う。

水賊として名を馳せた頃から、孫権の護衛武将として名を轟かせた今でも、周泰は女に恐れられたことしかない。

呉の勇ましき姫君達は別だが、周泰の容貌と隠せない育ちの悪さと寡黙な性格、その全てが本人の意思とは関係なく女子供に畏怖を与えることを周泰は自分自身で心得ていた。

だからこうして己の隣を平然と歩く女に戸惑いを隠せない。

もしやこの女、こう見えて手練の者なのだろうかと女の手を見るが、とても武器を扱うようには見えない。

だが日ノ本には忍という類の人間もいる。

屋根の上を走ったり、突然消えたり、中には凧で空を飛ぶ者もいる。一体どのような修錬を積めば、あのような動きや働きが出来るのか三国の国の者には検討もつかない。

周泰が知るその代表格である半蔵やねねを思い浮かべながらもう一度女を見るが、やはり忍にも見えなかった。




「どうかしましたか?」

「・・・・・・・・」



周泰の不躾な視線に気付いた女が顔を上げた。

その目の光には怯えも不信感も見られない。

周泰は口を開くことなく首を横に振ると、女はそうですか、と笑いまた前を向いて歩きだす。



もしやこの女は自分が誰か知っているのだろうか。だから怯えもせずこうして隣を歩いているのだろうか。

そう思うと気負っていた心が少し軽くなった気がした。

誤解であろうとなんであろうとあらぬ疑いを掛けられるのは御免葬る。

周泰とて一応呉の将なのだ。民に顔を知られていてもおかしくはない。

顔を動かさず視線だけ女に向けると、女はまた微笑む。




「・・・・・・・俺を知っているのか・・・」

気が抜けたせいかそんな言葉が口から出た。

「いいえ」

「・・・・なに・・・?」

首を振る女の言葉に、周泰は呆然とする。周泰を知らない。ならばなぜ女は平然と隣を歩いているのか。

――――――分からない。顔を顰めた周泰に女が慌てる。


「申し訳ありません!身分の高い方でしたらとんだご無礼を」


そう言って勢い良く頭を下げたせいで、せっかく洗った籠の中の衣類が落ちそうになり、周泰は反射的に籠に手を伸ばした。

籠ごと女の身体を元の体制へ押し戻す。

賊上がりの護衛武将の身分など無いに等しい。名家である孫家率いる呉ならば尚更のことだ。

孫策と孫権の引き立てと今まで積み上げてきた功績があるからこそ今の自分がある。

今にも平伏しそうな女に首を振り、誤解を解くべく喋ることが苦手な周泰は口を開いた。


「・・・俺はただの兵だ。気にするな・・・・・」

「そう・・・ですか?なら、どうして」


そんなことを聞くのか、と女は瞬きをする。

正直に伝えてもいいものか、と少し迷う。だが言わなければまだ不審を買うだろう。



「・・・・・俺を怖がらなかった。だからだ・・・・」

「怖がらなかった?」


きょとん、と女は首を傾げた。その仕草は見た目よりも幼い。


「・・・・・・俺は・・・・」


なんと言えばいいか分からず周泰は無意識に顔の傷を撫でた。

怖がられることが当然などと口にはしたくなかったのだ。珍しく口ごもり、視線が彷徨う。

すると女が周泰を見上げる。


「お名前をお聞きしてもよろしいですか?」

「・・・・・・・周泰・・・」

「周泰さん、ですか。私はと申します」

「・・・・・夏侯軍の者か・・・・・」

「はい。周泰さんは・・・」

「・・・・呉の兵だ・・・・」


敢えて武将だとは言わなかった。また女が恐縮してしまうと思ったからだ。


「呉の・・そうですか。周泰さんは似ています。私の大事な人に」

「?」



女は微笑む。よく笑う女だ。何処か遠くを見るように、視線は空を仰ぐ。



「こんなにも優しいのに、それが周りにうまく伝わらないところが似ています。確かに少し・・・見た目は怖いかもしれません。けれど、だからといって怖いなんて思うことはないんですよ」

「・・・・・・・・・」

「待っていてくれたんでしょう?私が洗濯し終わるのを。――――分かります、私の大事な人もそういうところありますから」

「・・・・そういうところ・・・・?」

「人の為に何かをしても、それを自分から言わないから。ずっと黙っているから中々気付けないんです。それで損したりするから私の方がハラハラしたりすることもしょっちゅうで。だから気付きました。周泰さんが私の事を心配してあの場に留まっていてくれたこと」





と名乗った女はそう言って、また笑う。

周泰は知らぬ内に拳を握りしめた。




――――嫉妬、している。


にではない。が言う”大事な人”にだ。

その人物は周泰と同じく強面で誤解されやすい人間らしい。

だがその人物にはがいる。何も言わずとも心中を察してくれる。己の意図を汲み取ってくれる。見た目に惑わされず、心を見る。まるで主君の孫権のようだ。



―――――――欲しい、この女が。








それは言わば悪癖だった。

水賊だった頃、欲しいものは何もかも奪った。食糧も金も女も。

それが当たり前だった。今となってはあの頃の悪行に自分でも吐き気がする。

だがその頃と同じ渇いた欲望が湧き上がってくる感覚に、周泰は拳を強く強く握りしめる。




「・・・・・・・・・・・・」

「はい?」

「・・・・・・・・・また・・」








周泰は絞り出すようにそれだけ言うと身を翻した。

既に天幕のすぐ傍まで来ていた。その証拠に魏の夏侯淵がこちらに走り寄ってくるのが見える。


「はい、またお会いしましょう」

「・・・・・・・ぁあ」

たった二文字。二文字だ。なのには周泰の言葉の意味を理解した。

それが嬉しく、けれど表情には出さずに周泰は歩き出す。

















きっとすぐにまた会える。

その時には、








「・・・・・・・奪う・・・・・・」









例え相手が誰であろうとも。






















周泰が、が魏延の乳母であること知り驚愕するのは再会を果たす3ヶ月後のこと。

















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矢印追加はあと一人。悪人面ラインナップ、惇、半蔵、周泰、ときたらあとはもうあの人しかいないでしょう。