目が覚めたら、子供がいなかった。

外へ出て行ってしまったのかと慌てて探して。

何処にもいなくて途方に暮れて、家に戻ってくると、

庭に人影があった。














選択












「エン!?・・・・・・どなた、ですか?」

「小生は左慈。貴公、探し物かね?」




見慣れない白い服に奇妙な顔の模様。

一瞬エンかと思ったら、庭に立っていたのは浮世離れおかしな格好の老人だった。




「子供を・・・探しているんですが。うちに何が御用ですか?」

「ふむ。小生は貴公の探し人を知っている」

「ほ、ほんとですか!?」



見るからに怪しい老人。けれどエンを知っているという。

もしかしたら、保護者なのだろうか?それとも・・・エンを虐待していた張本人?



「あの子は何処に行ったんです!?」

「貴公は魏文長という名を知っているかね?」

「・・・・・・・は?」



ギブンチョウ?

突然の問いに頭が回らない。聞き慣れない単語。名というからには誰かの名前なんだろう。


「知りません。それよりも!」

「では、劉備、曹操、孫堅、はどうかね?」

「・・・・三国志、ですか?」



歴史に疎い私でもそれくらいならば知っている。

昔の中国の三国それぞれの王。最近ではその戦いの一つが映画化されていた。

けれど何故そんなことを老人が聞くのか理解出来ない。




「そんなことよりもあの子は―――」

「魏文長。荊州の劉表配下、黄漢升と共に後に劉備に下り蜀の将となった。
姓は魏、字は文長、名は延という」

「えん?」

「魏延。それが貴公の探し人の、本当の名だ」

「ぎ、えん・・・・エンの名前はその、三国志の魏延という人にちなんで名付けたということですか?」



老人が何か知っているのは最早明白だった。

けれど何が言いたいのかは分からない。私はただあの子の居場所が知りたいだけ。

老人と目が合う。全てを見透かすような、何かを見定めるようなその目に私はたじろいだ。




「否。探し人は魏延”そのもの”だ」

「そのもの?何を言って―――・・・・」

「魏将軍は孤立している。今の蜀に将軍の安住の地はない。このままでは彼の人は破綻するであろう。
それは小生の望むところではない。彼の人が力を失えば、歴史の一角が崩れる。貴公の力が必要なのだ」



老人の手がゆっくりと差し伸べられる。

その手の中には透明な球体が一つ。何色とも言えない不思議な色で輝いている。



「時は貴公の住むこの時代より遥か昔、後漢。そこに貴公の探し人がいる」

「エンが、三国志の時代に・・・・?」

「小生の手を取るも取らぬも自由」

「そこにエンが、いる・・・?」







手が、ゆっくりとその球体に吸い寄せられていく。

それは悪魔の甘い囁き。

話の全てが荒唐無稽で、不審な事だらけなのに、圧倒的な何かに抗えない。

まるで誘惑にのせられて知恵の実を食べるアダムとイブのよう。

人は絶対的な何かに相対した時、その何かに判断を委ねてしまう。

私の手はみるみる内にその球体に吸い込まれていく。

その光景を怖いとも思わない自分が怖い。







「貴公に一つ、力を授ける。必ず役立つだろう」






遠くなのか近くなのか、上なのか下なのか、どこからか老人の声が聞こえる。

真白な景色の中に、ぽかりと開いた黒い穴。

その穴はみるみる大きくなって私を包みこんだ。
















ゆっくりと目を開く。

そこは木造の小屋のようだった。

壁も天井も全て木で囲まれている。ほんのりと土の匂いがするのは、床が土のままだからだ。

椅子とテーブルが一つ、乱雑に置かれている。床には瓶がいくつか転がっていた。

テーブルの向こうにカーテンのような布が天井からぶら下がっているのが見える。

窓から差し込むわずかな月灯りが、大きな影を作っている。

雰囲気から寝台で誰かが寝ているのだと察しがついた。






「え・・・ん・・・?」






ゆっくりと、ゆっくりとその人影に近づく。

麻の布を静かに捲りあげると、そこには大きな身体で丸くなっている一人の男が眠っていた。

探していた子供と同じ亜麻色の髪が、細かく編み込まれている。

額は大きく出っ張っていて、大きな瞼が目を隠して、対峙すればかなりの強面だろう。

きっとバケモノと称されるほどに。

まるで、あの子がそのまま大きくなったようだ。





「エン、なの?」





丸くなっている身体。起こさないように覗きこんで、息を呑んだ。

男の腕に、見なれた仮面が抱かれていたから。

息が、震える。

叫び出したい衝動を必死で押さえる。








男の身体は見るからに成熟している。

あちこち傷痕が残っていて、皮膚も堅い。

男はきっと自分よりも年上だ。多分、一回りは離れているだろう。

もしこの子が本当にあの子供だったとしたならば、私と会ってから二十年は経っていることになる。




それなのに。

それなのにまだ、あの仮面を大事に抱いている。



それはこの子が、二十年という月日の間孤独だったことを意味するのではないだろうか。

だからこんな、たった三日間の思い出に縋って生きているのではないだろうか。

この世界は、この時代は、そんなにもこの子にとって苦しみしか与えないものなのだろうか。





「えん・・・・エン!」





丸くなっている男の身体に自分の身体を滑り込ませる。

自分の身体よりも大きい頭を胸に抱きこんで、抱き締める。

最早疑いようもなかった。この人はエンなのだ。








男の身体がぴくりと動く。

瞼がゆるりと開いた。

大きな手が、伸びて、静かに抱きしめられた。





・・・・・・」






子供の時の仕草と同じように、私の胸に顔を埋めて瞼を落とす。

夢を、見ているのだろうか。

何度も呟かれる自分の名前に、涙が止まらない。

たった三日間の思い出を夢の中で追うほど、彼の孤独は深いのだろうか。












今はただその幸せな夢を壊さないように、エンの額にキスをして。

子供をあやすように彼の頭を抱きこんだ。