魏延は叫んだ。

腹の底から叫び、敵兵を威嚇した。


「我、戦ウ!!」


大切な約束の為に。

大切な人の為に。


過ぎ去ってしまったあまりに長い年月を嘆きながら。









面影














血に濡れた身体を川で洗い流す。

けれど周囲は皆血まみれの人間ばかりだ。

血で汚れた川はどこまで続き、禊はわずかに血を落とすだけの意味しか持たなかった。

それでも大切な仮面だけは汚したくないと、懐にしまってあった布で丁寧に血を拭き取る。





「魏延」




名を呼ばれて慌てて仮面をつけ直して振り向く。

そこにいたのは長い付き合いの老将で、魏延にとって数少ない理解者でもあった。



「お互いにしぶといのぉ。また生き残ったわい!」

「我・・負ケヌ」

「そうじゃの!わしもまだまだ若い者には負けんぞぃ!」


剛胆な笑い声が周囲に響き、静まり返っていた戦場の跡地にほんの少し笑いが見える。

自分には出来ないその気遣いに、遠い記憶の破片を重ねる。

彼女も、いつもそんな風に己を気遣ってくれた。




「さて。皆、本陣へ帰還じゃ!!」



生き残った者は、死んだ者を悼み、戦場を後にする。

魏延も、胸に手を当て、死者に追悼の念を捧げる。

敵も味方も死んだならば関係がない。そう言ったのは劉備だった。












魏延は幼い頃、神隠しに逢ったことがある。

それは誰にも言っていない己だけの隠し事で、今となってはどうしてそれがおこったのかも分からない。

けれど確かにそれが現実だった証がある。

魏延の顔を隠す、この仮面だ。

それは魏延がそこで会った優しい人に貰ったもので、魏延は彼女は天女だったのではないかと思っている。

誰にも愛されなかったこの身を愛してくれた優しい人。

名をといった。







彼女と過ごしたのはたった三日。それも二十年前のことだ。

魏延は既に三十を超えていた。それでも記憶は鮮明に残っている。

劉備に仕えたのは、彼の優しさがの優しさに通ずるものがあったからだ。

劉備ならば、のように己を信じてくれるのではないかと思ったからだった。











・・・」







辛い時は彼女の名を呟く。それがいつの間にか癖のようになっていた。

聞いてすぐにこの土地の言葉ではないと分かる名前は、周囲の者はきっと何かの呪(まじな)いの言葉だと思っているに違いない。

魏延は何度もこの呪いに救われてきた。

の名を呟くことで、己を励まし、時に諌め、奮闘してきた。

のいない魏延の人生は孤独だった。

兵となって国に士官し、武功をあげてもその風貌や言動から周囲に蔑まれ、疎まれてきた。

黄忠と共に蜀に下ってもそれは変わらない。

主君である劉備は魏延を温かく迎えてくれたが、その腹心である諸葛亮の魏延へ対する疑心はひどいものだった。

得意の祈祷で魏延に反骨の相があるとし、真っ向から魏延に謀反の疑いがあると言い放ったのである。





魏延は悲しかった。

が何度も”チゥ”をしてくれた頭部の骨の形のせいで、反骨と言われることも、

二十年という月日がどんどん魏延の記憶から彼女の面影を奪っていくことも。

どんなに強くなっても、もう彼女を護るという約束は果たせないのだということも。




いつの間にか外せなくなった仮面。

この貌(かお)を見れば、誰もが己を蔑み、恐れる。

大事な大事な彼女との思い出の品を、己は逃げの為に使っている。

は今の己を見ればきっと悲しむだろう。

自分を愛してくれるただ一人の人。









きっと彼女には二度と会えない。

血に塗れた己の身ではあの桃源郷へは辿り着けないのだ。

神が気まぐれで起こした奇跡。

彼女の面影だけを探して、今日も魏延は仮面を抱きしめ、子供のように丸くなって眠りにつく。

今はもう彼女に逢うことが叶うのは眠り中だけなのだから。