心地の良い風に目を開くとそこは執務室の机の上だった。 柄にもなくうたた寝してしまったのだろうかとしばし瞬きを繰り返し、そして違う、と立ち上がる。 ――――――戻ってきた、現実へ。 諸葛亮は静かすぎる周囲に若干の不安を感じながら、少しだけ歩幅を広くして執務室の扉を開けた。 外は眩しいくらいの晴天だった。雲一つない青空、というにはいささか不自然すぎるくらいの青。 柔らかな風は春の訪れを思わせ、その風を楽しみながら談笑する人の姿が城のあちこちに見えた。 その中の一人に己の妻がいることを認め、諸葛亮は足を速める。 「月英」 「これは孔明様」 拱手する姿は夫婦と呼ぶにはいささかよそよそしい。 今までそんなことを感じた事はただの一度たりとてないというのに。 あの二人の姿を見てきたせいだろうか、妙に苦々しく思うのは。 「魏延は今どこにいるかわかりますか」 「魏延殿・・・ですか?先ほど庭にいるのをみましたが、魏延殿の侍女が食事の用意ができたといっておりましたので、今頃は室に戻っている頃かと」 「そうですか」 「孔明様!」 魏延の部屋の方へ足を向けると、それを月英に呼び止められる。怪訝に振り向くと月英は困ったように少しだけ表情を緩めた。 「恐れながら今は遠慮した方がよろしいかと。今頃は食事の最中でしょう」 「確かめたいことがあるのです。それくらいなら構わないでしょう」 「え・・・?しかし、あのご夫婦の邪魔をするのは」 「―――!? 月英、今なんと」 月英の言葉に目を剥く。少しばかり声を張ったせいか月英は困惑したように一歩引いた。 「差しでがましいことを申しました。しかし・・・魏延殿との夫婦仲は今や国の誰もが知るところ。邪魔をするのは少々・・・」 それだけ言って供手をして黙る月英に、諸葛亮はしばし考える。 どうやら魏延の選択により、現実の事象が変化したようだ。それはおそらく魏延との想いのままに。 「そうですか・・・・」 諸葛亮は肩の力を抜き、どこまでも青く澄んだ空を見上げた。 親子と言われた時さえ誰もが羨む仲睦まじさだったのだ。夫婦となればそれは琴瑟相和、まさにそのものだろう。 (きんしつそうわ:夫婦が仲の良い様子) 「月英」 一歩引いて顔を上げない妻の名を呼ぶ。 諸葛亮の機嫌を損ねたと思ったと思っているのだろう。その表情は硬い。 「暇を作って遠乗りにでも出掛けましょうか、二人で」 「え?」 「たまには良いでしょう。魏延殿に習って夫婦の縁を深めるというのも」 諸葛亮の言葉に月英は頬を赤らめ、はい、と小さく頷いた。 それは久しく見ぬ女性らしい妻の姿だった。 ふわふわふわふわ、夢の中にいるようだった。 左腕に添うように、の身体が膝の上に乗っている。 魏延が肉の塊を口に運ぶと、今度はがその上から被りつく。 「ふふっ、エン、さっきからどうしたの?」 先ほどからやたら自分の存在を確かめたがる魏延に苦笑しながら、はその腕に頬を擦りつける。 すると今度は魏延がの頬や唇をペロリと舐めた。何度も、何度も繰り返し。 「・・・我ノ、妻」 「何を今更・・どうかした?」 「否」 魏延が目覚めた時―――――部屋に近い庭の大きな木の下にいた。 胡坐をかいて木の幹に身体を預けた状態で、膝の上にはが眠っていた。ギクリ、と身体が震える。 「・・・」 力なく名前を呼ぶ。目覚める前に何があったのか、思いだしたからだ。 突如目覚めなくなった。 慌てての胸に耳を付けると、ドクドクと規則正しい心臓の音が聞こえた。 「・・・・・エン?」 魏延が安堵していると、すぐ耳元でずっと聞きたかった声が聞こえた。 仙人が見せた幻とは違う、本当の、天女の声。 「エン、どうしたの?」 目を覚ました彼女はまるでそれが当たり前のように、魏延の唇に”チゥ”をした。 あまりの驚きに肩が震える。一度だってから唇に”チゥ”をしてもらったことなんてない。 「エン?」 肩を震わせた魏延をが不安そうに見上げる。魏延はどうしたらいいかわからずに、ただ目の前の柔らかな胸に顔を埋める。 感じる鼓動。それは確かに愛おしい人が生きている証拠だった。 「魏延様、様、ここにいらっしゃいましたか」 やがて女の声がして魏延は視線だけ上に向けた。 どこか見覚えのある侍女の姿をした女が供手をしながら笑顔をこちらに向けている。 そうだ、彼女は確か魏延の元に一度侍女として配属されたが、魏延を化け物と恐れすぐに配置換えされた女だ。 その女が、二人の姿を見て微笑みながら立っている。 「お食事の用意が出来ました」 「ありがとう、春莱殿。エン、じゃあ部屋で頂きましょうか」 「・・・・・」 「まぁ、魏延様。やはりお邪魔だったでしょうか。本当に仲がよろしいこと」 魏延の視線をなにと勘違いしたのだろうか、侍女がコロコロと高い声で笑った。 お恥ずかしいところを、とが言うと、侍女が袖で口元隠しまた笑う。 「城の中からでもお二人の姿は見えておりましたわ。本当に三国一のご夫婦だと月英様もおっしゃっておりました。」 「まぁ・・・ふふっ」 侍女の言葉にが顔を染める。だが反対に魏延は瞬きも忘れ、侍女の言葉を反芻した。 「妻・・・?」 「エン?なぁに?」 「・・・・我ノ妻・・・?」 「なぁに?寝ぼけているの?」 優しい優しいの声が耳から脳へ届く。 魏延はの身体を空高く抱えあげた。 青い青い空と幸せそうに微笑む妻の笑顔。二人を祝福する周囲の笑い声。 「!我・・・ズット、一緒!!」 「ずっと一緒ね、エン」 その戯れのような言葉を現実にするのだと、魏延は己の胸に固く誓った。 魏延 字は文長 中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の武将。義陽郡の人。劉備の荊州以来の配下で劉備の死後も蜀の為に尽力した。 三国一の愛妻家としても有名で、生涯妻一人を愛し、多くの子を儲けた。その様子は三国志演義をはじめ、多くの著書に記されるほどだった。 猛将と敵に恐れられたが、味方には果敢の将と称えられ、戦の際、彼を重宝した。 特に諸葛亮は魏延を高く評価し、諸葛亮は死の間際、弟子の姜維に北伐の指揮を委ね、魏延に彼の力になるよう嘆願した、と後に姜維が語った。 劉禅が魏軍に降伏した後、魏延は妻子と共にいずれかに姿を消し、魏軍はその行方を追随するもついぞ見つかることはなかったという。 一説によると蜀に最期まで尽力した魏延と妻子の未来を憂い、劉禅が侍女と共に逃がしたとするが定かではない。 絆それは永遠に途切れぬ赤い糸 |