出されたお茶の美味しさに、諸葛亮は思わずそれを飲み干した。

これほど豊かな味わいを持つ緑の茶葉など曹操ですら口にしたことはあるまい。

家の中を見回しても、色々な物で溢れかえっている。で、あるのにの態度からは気安ささえ感じられる。つまり、彼女の身分は貴族や豪族ではないのだ。

普通の民の生活がこれほど高い生活基準ならば、一体どれほど豊かな国なのだろうか。

想像することすら己の知識では困難に思えて、諸葛亮は二杯目の茶の中に劉備の顔を思い浮かべた。

我が君の理想とする国がここに在る、そう思えてならないのだ。















獣の足掻き











「あの、文長さんもどうぞ?」



諸葛亮が二杯目に口を付けたにも関わらず、出されたお茶に手をつけようともしない魏延には首を傾げた。


「緑茶、お嫌いでした?」

「・・・・・・・」

力無く首を横に振る魏延は、それでも湯のみに手を出そうとはしない。

は少し躊躇したように、魏延の傍に歩み寄ると脇にそっと腰を下した。



「もしかして具合が悪いですか?」

「文長殿」



何か答えろ、と諸葛亮は暗に魏延をたしなめた。

だが魏延は動かない。本当はきっと動きたいに違いない。が、動けばどうしたって身体はに触れたがる。

使者の報告で二人の仲睦ましさは嫌というほど知っている。当たり前に触れていた肌に触れることすら敵わないのだ。魏延の気持ちも分からぬではない。

ふとの腕が、魏延の額に伸びようとして、止まった。

熱を図ろうと思ったのだろうが、仮面が邪魔をしている。そもそも仮面のことにが触れないことに今更ながら諸葛亮は気付いた。

普通なら真っ先に問うはずだ。魏延の風体は賊にしか見えず、あまりにが普通に接しているので、当たり前のことに気付くのが遅れた。




「・・・・・・・・」


のしようとしたことに魏延も気付いたのだろう。

緩慢な動きで、魏延が仮面を外そうとしたことに気付き、諸葛亮はとっさに身体の向きを変えた。

見てはいけないだろうと、咄嗟にそう思ったのだ。

君主にすら素顔を見せない男の、隠された真実を見ることができるのは、それを赦された者だけだと諸葛亮は瞼をきつく閉じた。




「ちょっと、失礼しますね」

「・・・・・・・・」



魏延が、仮面を外したのだろう。だがの声に戸惑いはない。怖くはないのだろうか。

魏延が息を呑む気配が伝わり、諸葛亮にも緊張が走った。




「ふふっ、文長さんのこの仮面・・・・」

「・・・・・・・・」

「昔、私が作ったものに似ている気がします。というかそっくり」



そう言って、がおかしそうに笑った。その言葉に諸葛亮は劉備らの報告を思い出す。

そう、確かに。魏延の仮面はが作ったものだと聞いている。もまさかそれが本当に自分の作ったものだとは思わないだろう。




殿、一つお聞きしたことがあります」

「なんでしょう、孔明さん」

「貴方が作ったその仮面というのは、今此処にありますか?」




諸葛亮がゆっくりと瞼を開き振り返ると、そこにはいつもの魏延の姿があった。

そこに添うの姿を見ていると、いつもの二人だと錯覚を起こしてしまいそうだ。

魏延もそうなのだろう、拒まれることのなかった仮面の下がそわそわと動いている。



「ええ・・・多分仏間にしまってあったと思いますけど」

「見せて頂けませんか?」

「へ?べ、別に見ても面白いものじゃ・・・」

「どうかお願いします」


食い下がる諸葛亮に負けたのか、戸惑いながらも腰を上げたを見送り、その姿が見えなくなったところで諸葛亮は口を開いた。




「魏延、これは私の推測ですが、おそらく仮面は見つかりません」

「何故、ダ」

「もしこれが現実の世界ならば、仮面は存在しなければおかしい。殿が貴方に仮面を渡す前に私達は来たのですから」


魏延は少し首を傾げながらも頷いた。回転は遅いが理解力が無いわけではない。

「仮面が見つからなければ、現実と矛盾しています。つまりこの世界そのものが貴方と殿の記憶を頼りに作った幻術なのです」


二人の記憶を元にした世界ならば仮面は此処にはない。既に魏延が付けているという共通の認識があるからだ。

この家から発せられる音以外、外部からの音が全く聞こえないことにも諸葛亮は気付いていた。

この家だけが、此処にある世界。



「左慈殿は私と貴方に選択をさせるつもりです。貴方への選択はおそらく・・・どちらの殿を選ぶかということ」

「?・・・・ドチラ、ノ?」

「元の殿、つまり貴方を子供として愛している殿と、貴方と対等の位置に立っている女性としての殿です。・・・・分かりませんか?」

「ワカラヌ・・・・」

「貴方を子供として愛している殿は生涯に渡り貴方を愛するでしょう。しかしそれはあくまで母親としての感情です。死ぬまで彼女は貴方の母親であり続ける」

「・・・・・・・・」

「一方、今の彼女は大人としての貴方と出会いました。つまり貴方の動き次第では彼女を妻とすることも可能かもしれません。そしてその逆もあり得る。ただの男と女になればいつかは破綻も有り得る。男しての貴方を彼女が受け入れない可能性もある」

「妻・・・破綻・・・・」

「子として共に在り続けるか、男として賭けに出るか・・・・・全く仙人とは意地が悪い」

「諸葛亮・・ホドデハナイ・・・」

「言うじゃないですか、貴方も」




誤解されがちであるが、決して諸葛亮は魏延を憎んでいるわけでも恨んでいるわけでもない。

粗暴な人間は確かに好まぬが、あくまで国の役に立つかどうか、その一点に諸葛亮の人材への興味は絞られる。

魏延はその点で御しがたく使いものにならぬが、もしを得ることで己の感情を御することができるのなら、蜀は一人優秀な武将を本当の意味で得たことになる。




「諸葛亮・・・」

「なんです?」

「オ前ノ選択トハ、ナンダ?」

「・・・・・・簡単なことですよ」



諸葛亮は周囲が嫌がる独特の笑みを浮かべ、が消えて行った廊下の奥を見つめた。

魏延がつられて見ていると、パタパタと足音を立ててが戻ってきて、手ぶらの手をぶらぶらと横に振った。




「すいません、見つからなくて、どこにやっちゃったのかしら?」

「いえ、それなら構いません。余計な手間をかけさせました」

「あ、お二人お腹空いてません。あまり料理は得意じゃないんですけど・・・何か食べたい物ありますか?」

「ではこの国の郷土料理を、是非」




諸葛亮の言葉に、魏延の名残惜しそうな視線に気付かないが頷いてまた奥へと消えていく。




「言いたいことがあるなら言葉にしなければ伝わりませんよ、今の殿にはね」

「・・・・・・話ノ、続キ」

「それよりも殿を手伝ってきたらどうです?貴方はこの家の不可思議な物の知識を持っているのでしょう?」



月英が見たらさぞかし喜んだでしょうね、と続ける諸葛亮に、魏延は戸惑いながらも腰を上げた。

そしてそろりとがいるであろう台所へと向かう。



「ああ、魏延」

「ナンダ」


廊下まで足を運んだところで、諸葛亮に呼び止められ魏延が振り返った。





「履物はどうしたらいいのでしょうね」





そう言って気まずそうに服の下から隠していた靴を取り出す諸葛亮に、魏延は笑いながら庭を指差した。