誰か一人がいなくても、世界は正常に回っていく。 黄忠はその虚脱感を何度も何度も味わってきた。 この歳になれば、自然と出会いよりも別れの数の方が多くなっていく。 幾重もの戦いで死んでいった多くの同胞、兵、そして家族。 彼らがいなければ生きていけないのだと感じつつも、いざ失くしてしまっても朝が来ればまた身体は自然と動きだす。 それが天命、失くしたモノに泣いて縋るよりも、一歩でも前に進むことが生き残った人間の役目だ。 そんなことはわかっている。 わかっているがやりきれないのは、愛しく思う命がまだ完全には失われていないからだ。 と魏延。 魏延はもう随分と長い付き合いの戦友であり、口に出したことはないが息子のように思っている。 不器用で人付き合いのしにくい男だが、決して悪い男ではない。元来、戦いなどには向かぬ男なのだ。 そして魏延の全てをその大きな愛で包んだ優しい娘。 黄忠の愛すべき息子たちは今、生命の危機にさらされていた。 死んではいない、まだ生きている。それなのになす術のない己の身が歯がゆい。 「ええい、どうにかならんものか!」 忌々しげに叩きつけられた拳のせいで、床に転がったのは空の酒瓶だ。 酒に溺れたところで、救われはしないのだと知っていても、どうしても口にせずにはいられない。 酔ってでもいなければ、何も出来ずにただ過ぎて行くだけの時間を享受できないのだ。 「なにか・・・なにかあるはずじゃ・・・」 それは月英も、劉備も、趙雲も、皆思いは一緒だ。 何かしてやりたい、けれど何をすればいいのか、わからない。 そうして誰もが、途方に暮れていた。ある、一人を除いては。 龍の足掻き「まさか人が小生を呼びだすことができようとは・・・さすが天才軍師と言ったところか・・・」 「申し訳ありません、左慈殿。しかしお礼もお詫びも、今はまだ申し上げる時ではないでしょう」 「然様。このままではあの娘はいずれ死ぬ」 「やはり、私が貴方を呼びだした目的も御存じなのですね。いえ、そもそも貴方は最初から彼女を知っていたのでは?」 「その言葉の根拠がどこにあるのか・・・・誠に恐れ入る」 「言葉遊びをしたいのではないのです」 そこは諸葛亮が作った八卦陣の中の祈祷場だった。 儀式用に作られた松明の炎の中に仙人の姿が浮かんでいる。 左慈は穏やかに笑って見せたが、諸葛亮にはその余裕がなかった。 「死んでもらっては困るのです」 誰が、とは言わない。だがその表情にははっきりと焦りが読み取れる。 「こんなはずではなかった――――と?」 誰も届くはずのない諸葛亮の胸中を見透かすように、仙人は言葉を吐く。 諸葛亮は苛立ちを隠すようにパタパタと手元の扇を動かした。思考の探り合いは諸葛亮の得手だが相手が悪すぎる。 久々に味わう敗北感に、己の未熟さと屈辱を感じながら諸葛亮は左慈を見据えた。 「なにか手立てがあるはずです」 「手段はある。だがそれは貴公には少々酷というもの」 「私のことなどどうでもいいのです」 「その言葉、真か?」 「・・・・っ、本当です」 諸葛亮が言葉を詰まらせたのは、答えに迷ったからではない。 この期に及んでまだ己を試すような仙人の言葉に苛立ちを感じたからだ。天才軍師と呼ばれる諸葛亮も、まだ若い。 どんな天才でも千の年月を生きた仙人の前では赤子同然だ。 「ならば示そう」 左慈がゆっくりと左手を差し出した。炎の中に在る左慈の姿は実在のものではない。 にも関わらず、それはまるで実体を伴っているかのように諸葛亮の目の前で光り輝いた。 「小生は娘に選択をさせた。次は貴公らの番だ」 「一体何を・・・」 「おのずと分かろう。魏延と共に往くが良い」 「―――――・・・!!」 「貴公らに蜀の命運がかかっている。健闘を祈ろう」 口を開こうとして、諸葛亮の姿が光に呑まれた。風が巻き起こり火の粉が竜巻のように空に舞いあがる。 全ては一抹の夢の如く消え去り、残されたのは誰もいない祭壇のみ。 同時刻、誰にも知られることなく一人の将も、また、消えた。 「これは一体・・・・」 諸葛亮の目の前には理解できない光景が広がっていた。 それを一体なんと形容すればいいのか、言葉にし難いものを敢えて言の葉にするならば、”世界が違う” たった一瞬。たった一瞬で諸葛亮は見たことのない世界に飛ばされてしまった。 「仙術、ですか・・・」 諸葛亮は家の中にいた。木造だが明らかに三国のものとは造りが違う。 床には草のようなものが編み込んである。その編み目に指を滑らすと、微かに自然の匂いを感じて諸葛亮は深く息を吐いた。 「ここは一体・・・」 「ノ家ダ・・・・」 「魏延!」 振り向くとそこには、まるで何年も前からそこにいたかのように仮面の将が佇んでいた。 べったりと床に尻を付け胡坐をかいている。疲労しているのだろう、血色が悪く仮面から覗く眼光が鈍い。 天敵であるはずの諸葛亮がいるにも関わらず、ただただ周りの景色を懐かしむように魏延は動かなかった。 「殿の家・・・?」 「我、ココニイタ。、フタリ、ココデ、生キタ・・・・」 恐らく直前まで、目覚めぬの身体を抱いていたのだろう。 夢だと思っているのだろうか・・・いや、左慈はきっと魏延にも言葉を残しているはずだ。 ただ現状を理解していないのか、それとも全てを諦めてしまったのか。 魏延は天敵の目の前で隠さずに大粒の涙を零した。 「、目覚メヌ。我、穢シタ」 「貴方のせいではないでしょう」 「我ガ、禍イノ元、ダカラ」 「それは・・・」 違う、とは言えなかった。 その言葉はかつて諸葛亮が魏延に向かって放った言葉そのものだったから。 諸葛亮は国の為、劉備の為に、時に正しいとは言えぬ道を選んだこともある。そのことに後悔はない。 だが。 「全ては結果次第です。まだ彼女が目覚めぬと決まったわけじゃありません」 「諸葛亮・・・?」 「殿を目覚めさせる”何か”が此処にはあるはずです。そしてそこに貴方だけではなく私も呼ばれた。その意味を考えるべきでしょう」 「・・・・意味・・・・?」 「私だけでも、貴方だけでも駄目なのでしょう。左慈殿は、おそらく――――」 「きゃあ!!!」 諸葛亮の言葉を遮り、女性の悲鳴が上がって二人は庭の方に振り返った。 そこには魏延にとって見慣れた姿があり、思わず魏延は腰を上げた。 「!」 「殿!」 「え、え、あ、貴方達・・・どうして私の名前・・っていうか誰!?」 「「!?」」 はよほど驚いたのだろう、持っていた袋を土の上に落とし、こちらを指差して不法侵入!と叫んだ。 思わず二人は顔を見合わせる。魏延の仮面の下からは汗が噴き出ている。 慌てているからではない。単純に暑いからだ。この世界の暦は夏・・・? 「魏延、あれは殿で間違いありませんね?」 「間違イナイ!何故、、我ヲ知ラヌ」 「落ち着きなさい。貴方が殿と初めて出会ったのは、夏だったのではないですか?」 「・・・ソウ、ダ。、オ盆休ミ、言ッテタ」 その言葉に深く頷き、諸葛亮はへと言葉を投げかけた。目の前の彼女は混乱しているようだ。 「失礼ですが、殿ですね」 「そ、そうですけど・・・あ、貴方達誰!?」 「今日は”オボンヤスミ”ですか?」 「な、なんでそんなこと知ってるの!?」 どうやら推測は当たっているようだと諸葛亮は目を細めた。 は報告で聞いていたよりも遠目で観察していた時よりも内面は未熟なように見えるが、外見はそう変わらない。 「魏延、おそらく彼女は幼い頃の貴方と会う前の【】殿です」 「? ワカラヌ」 「我々が過去に来たのか、彼女が我々の知る殿と本当に同一人物なのか、それともこの世界自体妖術で作られたものなのか分かりませんが、彼女はまだ我々に会っていないんです。だから我々のことを知らない」 「ガ、我ヲシラヌ・・・・・」 その言葉に魏延は愕然としたように肩を落とした。 「大変失礼致しました。此処は貴方の家なのですね」 諸葛亮はゆっくりと頭を下げた。その礼の作法はかつてがよくして見せた仕草の一つだ。 これがおそらくこの世界の作法なのだろうと、諸葛亮は真似をしてみせる。 すると通じたらしく、もまたつられたかのように軽く会釈した。 「いえ、ええと・・・・?」 「以前、ここに住んでいた方を訪ねてきました。もう此処はその方の家ではなかったのですね」 「そ、祖父をご存じなんですか?」 「はい。以前も訪ねたことがありますので、勝手ながら上がって待たせて頂きましたが・・・」 「祖父のお知り合いでしたか。あ、それで私の名前も・・・・」 「ええ。怖い思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」 全てが推測と当てずっぽうだったが、はすんなりと信じたようだ。それだけ諸葛亮の演技は見事なものだった。 「さて、弱りましたね・・・」 「はい?」 「実は我々は宿がないのです。見ての通り他国から来た者ですので、御祖父様に頼んで今夜は此処に泊めて頂こうと思っていたものですから」 「え、あ、そうなんですか!?ええと、じゃあ、今夜はここに泊りますか?」 「おや、よろしいので?」 「ええ、祖父のお知り合いなら無碍には出来ませんし。なんのお持て成しもできませんが」 「ありがとうございます」 口八丁とはまさにこのことをいうのだろう。諸葛亮はまんまと今夜の宿を確保して見せたが、同時に少々心配になった。 自宅に見知らぬ男が二人も居たのにこの無防備ぶりは無知や無垢という言葉では片付かない。 まさに我が君のようなお人好しっぷりが趙雲や月英が放っておけないと構いたがる理由なのだろう。 「申し遅れました。孔明と申します」 「です。そちらの方は・・・・?」 「・・・・・・」 名を問われても、魏延が名を口にすることはなかった。 いや、言葉が出ないのだろう。求める人が、己のことを知らぬというのだ。無理もない。 「文長と申します。申し訳ありませんが、彼はこちらの言葉が不自由でして」 諸葛亮の言葉には疑うことなく笑顔で頷いた。その様子に諸葛亮は小さく安堵を漏らす。 咄嗟に姓と名を名乗らなかったのは、彼女の存在がまだ明確ではないからだ。 此処が過去なのか、幻なのか、分からないままで名を名乗るのは危険だと判断した。 「じゃあ今お茶淹れますから」 「ええ、ありがとうございます」 「・・・・・・・・」 が笑いながら履物を脱いで、庭から家に上がったのを見て、諸葛亮は咄嗟に自分の履き物を脱いで服の中に隠した。 ちらりと魏延を見ると、彼は最初から脱いでいたのだろう。やはり、魏延はこの土地の作法を知っているようだ。 ちょっと待ってて下さいね、とこちらに笑いかけるの姿は城で見かけた笑顔と変わらぬようで、諸葛亮と魏延はその後ろ姿を見つめた。 |