「ああ、洗濯物を干さなくちゃ」 別段何をするわけでもなく、テレビを見ていてハッと気付いた。 朝ごはんを済ませて、テレビのチャンネルをいじるだけの怠惰な日曜。 けれどこれがあるから平日の五日間働けるのだという、大人の言い訳。 そんな緩やかな時間の中にもやらなくてはならないことがあって、は腰をあげようとしたけれど、何故か身体が動かない。 テレビから流れる大勢の人の笑い声。 外から聞こえる車のエンジン音と、風と共に流れ込んでくる温かな日差し。 ああ、なんだっけ。 何をしようとして腰を上げようとしたんだが、分からなくなってまたテレビの前に座り込む。 何か、何か、忘れている気がするけれど思い出せない。 身体が妙に重くて、目をつぶればすぐにでも寝入ってしまいそう。 聞き慣れたテレビの音、排気ガスの匂い、お気に入りのふかふかのクッション。 ああ、だけどたまにはそんな日もいい。 だって今日は、寝ていてもいい日だもの。 ―――――――だから誰も邪魔しないで。 獣の嘆き「が目を覚まさない?」 報告を受けた劉備は思わず玉座から腰を上げそうになった。 月英の申し出により劉備が許可をした南蛮への遠征。 たった三日間ほどの小さな旅から帰って来た部下から受けた報告はなんとも信じがたいものだった。 「は怪我はしていないのだろう?」 「ええ。外傷もなく、医者も原因が分からぬと。はじめは襲われた恐怖により気を失ったのかと思っていたのですが」 劉備の問いに月英は気丈に答えた。だが内心はひどく動揺している。 まさかこのような事態になるとは、例え諸葛亮でも予想していなかったに違いない。 が南蛮で倒れてから、もう三日。一向に目を覚ます様子もなく、処方のしようがないと誰もが途方に暮れている。 「それで、魏延はどうしているのだ?」 「正直、手が付けられません。の身体を離さず抱え込んで、他の者が近付こうとすると威嚇を・・・まるで子を護ろうとする獣の親のようです」 の様子がおかしいと分かり、魏延はから一時も離れようとはしなかった。 ついには寝台に寝かせていたの身体を両腕で抱き、医師さえも近づくことを許さなくなった。 黄忠や月英の呼びかけにも応えなくなり、魏延の部屋に引きこもってしまった。 も魏延もまともに食事も摂れていない。このままでは本当に命を落としてしまいかねない。 「寝たまま目覚めぬ病気など・・・あるものだろうか」 「わかりません。医師もそのような病気は聞いたことがないと。ですが、このままにしておくわけにはまいりませぬ」 「もちろんだ。まずは魏延とをどうにか引き離さなければならないか」 「それと・・・殿から左慈殿にお知恵を借りることは出来ないものでしょうか?」 「左慈殿に?」 頭を垂れる月英に、劉備は眉を寄せた。 左慈、とはどこからともなく現れては気まぐれに去っていく仙人の名である。 一見にしてただの老人ではないその仙人は、時折劉備に知恵を授け、気まぐれに蜀の民と戯れてはいずれかに消えていく。 確かに悠久の時を生きる仙人ならばの症状について何か知っているかもしれないが、こちらから接触を図ることが不可能な人物だ。 今までただの一度も劉備から呼び出したこともなければ、その方法も知らない。 今度いつ現れるかも分からぬ人物だ。 「探すことは出来ぬでしょうか?」 「もちろん、そうしたいのは山々だが・・・」 今回の一件、ことさら責任を感じている月英はなんとしてもを目覚めさせたかった。 新しく出来た友を失いたくないという純粋な想いの一方で、彼女は夫がこれから成すであろうなんらかの策に必要だということを月英は知っている。 その為にも失えない―――そんな友を想う気持ちと、夫の為であるという邪な気持ち、その二つが月英の中でひしめき合っている。 けれど月英は知っている。例えそのことで誰が傷つこうとも、結局自分が最後に選ぶのは夫だということを。 知っているからこそ、月英はを目覚めさせたかった。 このまま命を失わせることがあってはならない。例え己の立場から矛盾していたとしても、を利用し、そしてこれからも利用するであろう月英のせめてもの罪滅ぼしだからだ。 戸惑う劉備に礼をし、月英は重い足取りで玉座を後にした。 途中、控えていた趙雲が口を開こうとするが、月英はそれを遮り首を横に振った。 超雲はただ肩を落とし、開きかけた口を閉じる。月英はそれを一瞥し、重い足を諸葛亮の部屋へと運んだ。 「ア”ア”ア”アアア」 魏延は泣いていた。泣き叫んでいた。 の身体を抱きながら。仮面を外し部屋に引き籠ってただひたすら赤子が癇癪を起したように。 それは獣の呻きのように鋭く恐ろしい声だった。 血で汚れた自分はもうあの桃源郷には行けぬと思っていた。 けれど会えた。 汚れた魏延がもう桃源郷に行けぬから、だからが会いに来てくれたのだと本当にそう思った。 なのに今度は彼女自身を汚してしまった。 血を見て、気絶してそのまま目を覚まさぬ。 不浄なものを、見せてはいけなかったのだ。 穢れたものに近付けてはいかなかった。 が帰ってしまう。 もう自分は行くことの出来ない、あの桃源郷へ。 ここにあるのは彼女の抜け殻。 穢れた御身を置いて、彼女の魂だけが桃源郷へ帰ってしまう。 「!!!!」 もしが目を覚ましたら。 誰もいないところへ行こう。 山奥で二人きり、戦もない、美しい山々に囲まれて二人きりで。 そう、最初からそうすれば良かったのだ。 何もいらない。さえいればなにもいらなかったのに。 汚れた己の欲望も、胸にしまい続けよう。 彼女を汚すもの全て、決して彼女に近づけぬように。 「ア”ア”ア”アアア」 かの獣は泣く。 泣き叫ぶ。 助けてくれと泣くのではない。 ただ己の愚かさを悔いて嘆く。 「さてこれは奇妙なことに」 そして老人は呟く。 その手の平には光のつぶて。 その中には彼の者の夢が映されている。 「小生はいかにすべきを知るが、果たしてかの獣はその言葉を理解するか・・・・・」 獣の嗚咽は止まらない。 彼の者が与えた仮面に涙が溜まる、それさえも厭わずに。 獣は泣き続ける。 血の匂いが消えぬのだと喚き散らす。 不浄が消えねば、彼の者が目覚めぬのにと、泣き伏せる。 そして今夜も。 獣の嘆きは止まらない。 |