人には誰しも願いがある。

人には誰しも望みがある。

その為に。






「丞相、準備の方、全て整いました」

「御苦労さまです、姜維。では参りましょう」





邪魔する者は誰であろうと許さない。





「さぁ、始めましょうか」














前兆


















空に走った矢は魏延とを傷つけることは叶わなかった。

魏延が双極星を振るよりも速く、黄忠が弓を射るよりも速く、月英が戦戈で矢を叩き落としたからだ。




「黄忠殿!の護衛をお願いします!」

「ま、待て、月英!これは一体・・・」

「説明している暇はありません!魏延殿!参りますよ!」

「ウガァ!!」




月英の護衛兵が矢が飛んできた方向へ、矢を放つ。

すると現れたのは、どこの国とも見分けがつかぬ黒の衣をまとった兵。

だがその中に見覚えのある顔を見つけ、魏延はギラリと目を光らせた。



「ガァ!!」

「ちっ、後もう少しだったものを・・・」

「お主、見覚えがあるぞ!確か、軍師殿の・・・」

「孔明様の側近の男ですわ。名は高令(こうり)ようやく尻尾を出しましたわね」

「ドウイウコトダ」




月英の言葉に注目は集まる。高令はちっと舌打ちして顔を歪めた。



「何故だ、月英殿!何故貴方が私の邪魔をするのか!」

「その発言、自分が何をしているのか全く理解していないようですね」

「私は!私は諸葛亮様の為に!!」

「黙りなさい。貴方に勝手に夫の名を使われるのは不愉快です」

「くそぅ!!良い、こうなったら月英共々皆殺しだ!!」



その言葉に黒の男達が一斉に刃を抜いた。敵の数は三十。こちらの約二倍。

月英はまるで怯むことなくゆっくりと武器を構える。だがその瞳は怒りに燃えていた。



「月英、後できっちり説明するんじゃぞ!」

「わかっております、黄忠殿。魏延殿ももごめんなさい。説明はここを片付けてからです。」

「・・・・オ前、敵、違ウ」

「勿論です。私達は同じ蜀の仲間じゃありませんか」


「月英様・・・・・」



緊迫した状況で、ようやくが口を開く。だがなんと言っていいか分からず、言葉を発する前に黄忠に手を引かれた。


、お主はわしの後ろに下がっておれ!動いてはいかんぞ!」

「は、はい・・・」




ガチン!と刀同士がぶつかる音がした。

魏延が目の前の敵を数人まとめて吹き飛ばした、その音が合図となり一斉に兵達が動き始まる。

月英の護衛兵はまるで予め配置が決められていたのかのように、数人は黄忠との周囲を固め、残りは全員矢を用いて魏延と月英の護衛にまわる。

魏延、黄忠の護衛兵も反応はやや遅れたものの、それぞれが武器を手に唸り声を上げた。



「皆、油断せぬように!」

「我、闘ウ!!」

「おのれおのれおのれぇえええ!!」



月英が鮮やかに戈を振り、魏延が力任せに敵を吹き飛ばす。

二人の将がみるみる内に敵を減らし、気が付けば残る兵はただ一人、高令のみとなった。

出番無し、それぞれの護衛兵は二人の強さにため息すら漏らし、敵を心底気の毒に思う。

魏延と月英、二人の将の本気を目の前に、戦意を喪失しないものなどいるはずもない!




「残るは貴方一人。最後に一言だけ残すことを許します」

「ウガァ!何故、我ラ、襲ウ!」

「黙れ、獣が!貴様のような者が将として存在すること自体が許せんのだ!何故、獣が将の位を冠し、私の上に立つというのだ!私が、私こそが将たるにふさわしいというのに!」

「なるほど。孔明様の為などと言いながら、結局は私利私欲。そんな貴方を孔明様は見抜いていらっしゃいました」

「違う!諸葛亮殿は私に期待して下さった!だから私はその期待に応えようと!諸葛亮様とてこの獣を厭ておられた。だからこそ私は!」

「エンは獣なんかじゃない!」



高令の言葉に耐えきれず、叫んだのはだった。

前へ踏み出そうとするを黄忠が制するが、それでもは止まらない。


「自分のことしか考えられない貴方の方がよっぽど獣よ!貴方のせいでどれだけの人が傷ついたと思ってるの!?今、貴方の足元にいる人達を見るといい!」


ぼろぼろと、涙を零すの瞳にはくやしさが滲み出ていた。

魏延のことだけじゃない。簡単に人を殺そうとする、その思考が許せなかった。

魏延が気に入らない。だから殺す?味方をした黄忠や月英もみんな?そんなことが許されるはずがないのに!



「気に入らないのなら、分かりあえないのなら、話し合えばいい。人には言葉がある!私は昔エンにそれを教えたわ!あなたは誰にも教わらなかったの!?」

「そうだ、貴様だ!貴様が現れてから、殿や将軍たちまでも魏延の味方をし始めた!貴様こそ分からぬか!貴様こそ全ての元凶なのだ!貴様さえ現れなければ、獣など勝手に戦場で果てたものを!貴様は何者だ!どうやって皆を誑かした!」

、下がって!貴方の言葉はあの男には通じない。貴方の言うとおり、あれはもう人ではない。言葉が通じぬなら獣同然」



追い詰められた獣は何をしでかすか分からない。

咆哮した高令はに向かって突進する。それは一瞬の出来事。

月英と魏延が同時に武器を振るが、死を覚悟した男はそれを避けようともせず身を切り刻まれながらも足を止めずにの眼前に迫る。


!!」

!!」



黄忠が慌てて弓を構えるが間に合わない。

は胸の前で祈るように手を合わせながら、それでも動かない。

怒声、悲鳴、様々な音が入り混じる中で突然、それらを薙ぎ払うように一風の風が吹いた。




「うわぁあああ!!!」





それは男を軽々と吹き飛ばし、地へと叩きつける。

ボキッと嫌な音がして、高令の血が土を赤く染めた。





「月英、御苦労さまでした。それから殿。貴方は随分と無茶をする方のようですね」

「あ、貴方は・・・」





風と共に姿を現したのは、見たことのない男だった。

白の衣装に奇妙な形の帽子を被り、手には扇のようなものが一つ、パタパタと男の手で風に揺れている。


「ウガ!諸葛亮!」

「え!?じゃあ、あの人が・・・・」

「私の夫であり、蜀の軍師である諸葛亮 孔明様です。」


月英は微笑みながら、諸葛亮を紹介する。

だがどうして多忙なはずの軍師が此処にいるのか。しかも、兵を引き連れて。




「諸葛亮、説明、シロ」

「そうじゃ、一体どうなっておる!わしらにもわかるように説明せぃ!」

「ええ、それはもちろ―――、殿!」


諸葛亮の声に皆が振り向くと、そこには地面に伏したの姿があった。魏延が慌ててを抱きあげる。



!!

「大丈夫です、魏延殿。突然襲撃に遭ったのですもの。安心して気を抜かれただけですわ」


慌てる魏延に月英は兵に水筒を持ってこさせると、それを布に含ませの額に当てた。


「すぐに城に戻りましょう。孔明様」

「ええ、それがよいでしょう。こちらの処理は私達が。貴方達は先に城へ戻っていなさい」

「おおい、わしらはまだ何も聞いておらんぞ、軍師殿!」

「いずれ殿にもご報告しなければならないことです。話すなら一度が良いでしょう。魏延殿もそれでよろしいですね」



諸葛亮は扇を口元に当てて、魏延を見定めるように眺めた。

以前ならその視線が嫌でたまらなかっただろう。なのになぜか、今はその視線が嫌ではないことに魏延は気付いていた。

それが何故だかは分からない。分からないけれど、今はとにかく腕の中の大事な人を守ることが先決だ。

魏延は無言で頷き、月英の馬を顎で指す。


、ノセル、イイカ」

「ええ、もちろんです」


魏延の言葉に月英は笑顔で応える。月英の胸には熱いものが込み上げていた。

ほんの少し前、襲撃に遭う前に月英が勧めた馬を魏延は断った。信用されていなかったからだ。

けれどこうして今、魏延の口から先ほどとは全く正反対の言葉を聞くことが出来た。




(これが貴方の力なのですね、・・・・)




自分達だけでは、きっとこんな風に分かり合うことも言葉を交わすことすらも出来なかった。

魏延に心を、言葉を教え、まるでなんの壁も存在しないかのように月英に歩み寄る機会をくれた。

それはとても簡単なようで、とても難しい。疑う、裏切る、それが当たり前の乱世の世では尚更のこと。



(きっと孔明様はの力のことも見抜いていらっしゃった・・・)





改めて夫の先見の明には恐れ入る。

劉備からの話を聞き、孔明はずっと彼女のことを調べさせていた。

けれど生まれ・経歴、何一つ分からず、魏延の乳母であることの裏付けも出来なかった。

月英は孔明の命令でに近づいたのだが―――――




(本当に恐ろしいお方・・・・・)




一体どこからどこまでが策の内なのか、月英にすら図りきれない。

からの南蛮の誘い、あまりに間が合いすぎた高令の謀反、襲撃。そして――――





これから起こるだろう出来事に月英は身震いせずにはいられない。

孔明の中では誰もが碁盤の駒に過ぎないのだということをまざまざと思い知らされる。

自分すらも、その駒の一つだということはとうに納得していたことなのに。




誰にも気づかぬよう、月英は目を伏せる。

願わくば、心優しき友が、傷つかぬよう。

けれどそれはとても叶わぬ願いに思えて、月英は瞼を震わせた。