目の前にはまさしく原住民の存在を思わせる巨大な建造物に鬱蒼としたジャングルが広がっている。 身体につき纏う湿気と太陽の熱は蜀では考えられないほど暑く体力を消耗する。 誰もが額の汗を拭いながら、ただひたすらに足を動かしている。止まったら最後、足を踏み出す決意が折れてしまいそうだからだ。 その中で元気なのは一人―――いや、三人。先頭と最後尾に小隊一つの差が出てしまいそうなほど意気揚揚と先陣を切っていた。 笑う人どこにでもいる平凡な体力しか持たないは一人だけ馬に乗ることを許されている。 この密林に足を踏み入れたのは将が三人と発案者である月英の小隊と魏延と黄忠の護衛兵、そして案内役のである。 南蛮には南蛮の権力者がおり、他国の者が大人数で許可なくその地に侵入することは許されない。 軍師・諸葛亮の働きで以前より同盟関係にあるとはいえ、危険がないわけではないのだ。 その為、非戦闘員であるだけがこうして馬に乗り、残りの将と兵達は武装しながら進んでいる。 かといって決して殺伐としているわけではなく、会話だけ聞けばピクニックでもしているのかと勘違いしそうになるような雰囲気に、は緊張に張っていた肩を少しだけ緩めた。 「のうのう、。あれはなんじゃろうなぁ。わしの弓で落としてみようか」 「黄忠様、あれはやしの実ですよ。実のヘタの部分をくり抜いて飲みものとして飲めるんですよ」 「ほほぅ。では落としてみるかのぅ!にわしの弓の腕をみせてやるわい!がっはっはっ!」 ジャングルの奥にまで響きそうな豪快な笑い声を発したのは蜀で五虎将に数えられる弓の名手・黄忠だ。 黄忠は初めて会ったその時よりのことを気に入っており、なんやかんやと構いたがる。 その理由は魏延の乳母というだけではなく、が披露した腰痛に効く現代風マッサージとわずかながらの医学の知識(現代人なら当たり前に知っている程度なのだが)を大層気に入った為である。 「まぁ、、あれはなにかしら!?」 「トーテムポールですね。この地の歴史や偉人の名を刻み残すものです」 「でもあのように刻んだだけではこの湿気ですぐに木が腐ってしまうのではないのかしら?」 「ええ。ですが、それは自然のものが土に還る当然の原理として考えられています。朽ちたらまた新しく作り替える、そういうものなんだそうです」 諸葛亮の妻、月英はの持つ知識が大層お気に入りで、次から次へと質問を浴びせかけている。 実はその度にの蚤の心臓はヒヤリとしているのだが、そこは情報社会で育って現代人。 一見なんの役に立つのかと訝しんだテレビやネットの情報を平穏を装いつつここぞとばかりに披露していた。 どうせ間違っていたって分かりやしないのだから、という本音は絶対誰にも言えないものだ。 「ウゥウ・・・・ゥウ」 構いたいのか構って欲しいのか、なにかにつけてに言葉をかける二人に業を煮やしているのが、仮面の将、魏延。 仮面の横に恐ろしいほどはっきりと浮いた血管は、残念ながらその横を歩いている護衛兵にしか見えない。 この地に一番詳しいのは誰がどう見たって魏延であるはずなのに、誰も魏延に声をかけないのは彼が舌足らずだという理由だけではない。 の乗っている馬の手綱を握りしめながら、ヤキモキとしている様に護衛兵はその三倍以上ヤキモキしていることに魏延は永遠に気付きはしないだろう。 こうなったら、の馬だけ連れてこいつらを置いてってやろうか―――そんな物騒な考えが仮面の脳によぎった時、が「あ」、と一言声を上げた。 それは白くて細い枯れ枝のように頼りなく伸びた木だった。 密林の奥一面に生えていることからここら一帯が群生地に違いない。 パラゴムノキ、そう呼ばれるこの木は天然ゴムの原料となる、日本でも馴染みある木である。 (小学校の裏とかによく植えられてたっけ・・・・) 口には出さずそんなことを思いながら、魏延に身体を持ち上げてもらい馬から降りる。 木の幹に手を添えてみると、熱帯にも関わらず木自体はひやりと冷たく皮も柔らかい。 「で、これをどうするんじゃ?」 そもそもここへ来た目的をいまいち理解していない黄忠はなにをするのかと首を傾げた。 彼の護衛兵の手の中には、殿への土産にと自慢の弓で落とされたやしの実が山となっている。 「確か・・・幹に傷をつけて樹液を取りだすんですわね?」 「はい。そしてそれを濾過(ろか)して酢を加えて固めて、火で乾燥させます」 あらかじめゴムの作り方を教えていた月英はテキパキと部下達に指示を出し作業に取り掛かった。 ゴムの作り方さえ遠い昔理科の授業で習っただけなのだから、本当に虎車に使えるようなタイヤが出来上がるのか実は半信半疑。だが、ここまできたらもう開き直るしかない。 も手伝おうと月英があらかじめ用意していた道具を手に取ると、月英が目を細めて笑みを浮かべた。 「はそんなもの持たなくても結構ですのに」 「料理用の包丁と変わりませんよ」 月英が言ったのは、の手の中にある幹を傷つける為の小さなナイフのことだ。 きっと普段は戦の為の道具として使われているものなのだろう。それは鋭いながらもどこか使い古された鈍い光を放っている。 現代人の―――平和な世で育った日本人のにとっては戦は忌むべきものであり、おとぎ話のような現実味のない話であるが、この時代の人間にとっては生き残るための手段である。 命の価値観の違いはどうにも拭えないものがあるが、それでも彼らが非情なわけでも極悪人なわけでもない。 月英の気遣いに微笑みを返しながら借りた道具で幹を傷つけると、そこから白色の樹液がどろりと溢れだした。 月英とが朗らかに笑い合いながら作業するのを魏延と黄忠は少し離れた場所で見つめていた。 しかし故郷の地であるにも関わらず、魏延の緊張が和らぐことはない。 「なんだか拍子抜けじゃのぅ」 黄忠の一言は魏延の心中の全てを表していた。 てっきり諸葛亮による敵襲があるのかと思っていたからだ。 月英が蜀より離れた南蛮にを連れ出し、伏兵がを討つ。 そんなシナリオを想定していた二人は、すっかり毒が抜かれた気分になっていた。 「月英もすっかりを気に入ったようじゃ。取り越し苦労だったようじゃのぅ」 「・・・・マダ・・・油断デキヌ・・・」 「ふーむ。まぁ警戒するに越したことはないが・・・・」 黄忠からすれば、諸葛亮も魏延もまだまだ若造である。 互いに倦厭し合う仲、一方の立場を貶める為にもう一方が策を弄する、血気盛んな若者達がそんな風に争う様をいままで何度も見てきた。 しかしだからといって魏延を厭う諸葛亮がの存在を消そうなどと安直なことを考えるだろうか。 が劉備や義兄弟に気に入られ、趙雲と親しく言葉を交わす仲であることは周知の事実である。 が武将や軍師などの才を持つ者ならば、出世を望む者達に敬遠されてもおかしくはないだろう。 だが目の前の女はただの女である。 女が類まれなる才を持つとするならそれはただ一つ、魏延を手懐けた良母であるということだけだ。 「考えすぎじゃないかのぅ・・・・」 「・・・・否・・・・」 一向に警戒を解こうとしない魏延に黄忠はため息を吐いた。 ずっと立ち止まっていたせいで額から汗が流れてくる。やはり老齢の身にこの気温と湿気はきつい。 「、月英、まだかのぅ」 たまらず声を上げると二人同時に顔をこちらに向け、もう終わります、と目を合わせて笑い合う。 魏延の言が正しければ、は月英の母親ほどの歳になるのだが、並んだ二人は同世代の友人にしか見えなかった。 「ねぇ、。よろしかったら、私の馬に乗りません?」 「え、よろしいんですか?」 ゴムの樹脂と樽に詰め終わり、出発の準備が整ったところで月英がに自分の馬を見せた。 魏延の馬は、巨躯を乗せることができるように当然大きな馬が選ばれている。 行きの道中でその馬に乗って来たは、馬の大きな背に足と腰がつってしまいそうだと月英に漏らしたからだ。 それに比べ月英の馬は小さな馬で女性でもたやすく跨ることができる。 月英がそんな風に気を使ってくれたことが嬉しく、は振り返り魏延を見る。 すると魏延は仮面の上からも分かるほど表情を固くし、の身体を片手で持ち上げた。 「え、エン!?」 「・・・・・・・」 無言で月英から引き離そうとする魏延には慌てる。 月英はその様子を見て、にっこりと笑った。 「まぁ・・・魏延殿は心配性ですこと」 「・・・・・、我ノ馬・・・ノセル」 「それではが辛いでしょう。ならば私の馬をお貸ししますから、魏延殿が手綱を引けばよろしいですわ」 「エン、どうしたのそんなに怖い顔して」 は抱えられた状態で、魏延の頬に触れた。 それは固く強張っており、視線は月英から動かない。 「エン?」 の手がペタペタと魏延の頬を撫でる。 魏延はその手に一度だけ自分の顔を猫のように擦りつけると、を地に下ろした。 その瞬間、 「!」 「魏延!」 月英と黄忠の叫び声が宙に響く。 熱気の籠った青い空を走ったのは無数の矢。 「ウガァ!!!」 魏延が武器を振るうのが速いか、矢が届くのが速いか、 悲鳴と共に上がる血飛沫に笑ったのは果たして誰だったのか――――― |