目の前には緑に覆われたなだらかな丘がある。

馬の腹を蹴って勢い良く駆け上がれば、飛び込んでくるのは鮮やかな緑に囲まれた市井の景色。

巨大な、とは言えないが王の、そして民の力により確実に豊かになりつつある土地を老人は満足そうに見つめ、笑い声をあげた。



「さて皆の衆、我らが故郷に参ろうぞ!」








召集











自慢の弓を片手に勇み足で玉座に向かう老人に、擦れ違う誰もが立ち止まり礼をする。

老人はそれに寛容に応え、時折挨拶に応じながらそれでも足は止めずに直進する。

やがて城のもっとも奥まった部分へ辿り着き、一度咳払いをすると大声をあげた。



「殿!黄漢升ただいま帰りましたぞ!」



扉を力任せに開くと、そこには見慣れた王とその義兄弟が顔を揃えていた。


「おお!黄忠、よくぞ無事帰ってきてくれた!」

「無事務めを果たしましたぞ!かっかっか!」

「ご無事でなにより」

「じいさんが使者なんて、その辺でぽっくり逝っちまってるんじゃないかって心配してたぜ!」

最初に声を上げたのはやはり劉備で、隠すことのない満面の笑みで臣を迎えてくれる王は広い大地を見渡してもただ一人だろう。

それに続いた関羽、張飛のねぎらいの言葉に気を良くし、黄忠は土産にと酒を差し出す。

すると真っ先に手を出そうとしたのはやはり張飛。



「おう!気が利くじゃねぇか!」

「こら、翼徳やめぬか」

「よいよい、今夜は土産話を肴にぱぁーっとやろうかのぉ!」

「がっはっはっ!さすがじいさん!よっしゃあ今夜は飲み比べといくかぁ!?」

「ふん!若造がわしと張ろうなんざ百年早いわぁ!」



酒好きで気の合う二人は早くも酒に酔ったような軽口を叩く。

それを微笑ましく見つめながらも、劉備は咳払いを一つし、黄忠と張飛の会話を遮った。




「実はな黄忠、帰って早速で悪いが一つ相談事があるのだよ」

「ほほう?殿がこのわしに相談とな?」

「兄者、それはもしや・・」



勘のいい関羽は劉備の言わんとすることを察し、自慢の鬚に指を絡ませた。

張飛はなんのことかと首を傾げる。だがやがて思い当ったようにぽん、と手を叩いた。



「そういやじいさん、まだ知らなかったな!」

「なんじゃ?なんぞあったかの?」

「ふむ。黄忠が使者に出ている間、城に新しく雇用した者がいるのだ」

「ほぅ?その者がなんぞ問題でも起こしたので?」

「いや、その者自体はなんら問題はないのだが・・・その者を認めない者がいてな」



歯切れの悪い言い方をする劉備に黄忠は首を傾げる。

一体どこの誰を雇用して、誰がそれを認めないのか。

中々言おうとしない劉備に剛を煮やし、黄忠は関羽に向き直った。



「一体どこの誰を雇用したんじゃ?それになんの問題があると?」

「雇い入れたのは魏延の乳母をしていたという者で、今は魏延の侍女として働いております」

「ぎ、魏延の乳母じゃと!?ほぅ!そのような者がおるとは知らなんだ!」

「・・・・・黄忠殿も聞いたことがないと?」

「ふむ。知らん。少なくとも荊州時代には聞いたこともない」



黄忠の言葉に関羽は目を細めた。

実はの経歴については、工作員に探らせたが結局分からず仕舞いだったのだ。

だがそれは珍しいことではない。

名家にでも生まれたのなら、出生を明らかにすることも容易いが、一般の民となればそうもいかない。

生まれてすぐ売られる者もいれば奉公に出る者もいる。

に間者の疑いなど誰一人抱いてはいない。それでも の出自をはっきりさせておきたいのには理由があった。




「じいさんが知らねぇとなると・・・こりゃやっかいかもしれねぇなぁ」

「乳母というからには、魏延の育ての親なのじゃろう?どんなおなごじゃ?」

「年は四十を超えているそうだが、とても若く見える女人で、二人を見ていると本当の親子かと思えるほど仲睦まじいのだよ」

「魏延を大声で叱る様など母そのもの」


三人の口から出る言葉に、黄忠も興味を示す。



「して・・・そのおなごの名は?」

という。魏延と同じ土地の者だとか」

「なに、””じゃと!」



劉備の言葉に、黄忠はしゃがれた声を張り上げた。

覚えがあるという反応に、三人は顔を合わせる。



「知ってんのか、じいさん!」

「知ってるもなにも・・・魏延がよく口にする名じゃよ。そうか、乳母の名じゃったか。わしはてっきり好いたおなごの名だとばかり」

「その名について、魏延はなんと?」


関羽が訪ねると、黄忠は昔を思い出すように、しばらく視線を宙に浮かせた。


「恩人の名じゃと・・・もう二度と会えないだろうと言っておったが」

「ではこれでが魏延の乳母だと証明できるわけだな!」


劉備の言葉に、張飛が力いっぱい頷く。だが関羽だけは首を横に振った。


「兄者・・・それだけでは証明にはなりますまい。なにか証拠がなければ」

「・・・・それほど甘い相手ではないか」

「っちくしょう!ややこしいぜ!」


三人の脳裏に浮かんでいるのは、蜀の頭脳とも言える人物。

天才軍師相手では黄忠の証言だけではさすがに分が悪い。

一気に沈む三人に、黄忠は一人首を傾げた。

「よくわからんが・・・証拠が必要なのかの?」

「ああ、なにかいい考えはないだろうか?」


縋るような劉備の視線に、黄忠は何気なしに応えた。


「それならば、魏延の仮面が証拠になりませんかの?」

「魏延の・・・仮面?」

「然様。魏延に聞いた話では、あの仮面はそもそも””が作ったもので、それを魏延に与えたとか」

「そりゃほんとかよ!?」

「なんと!?あの仮面はが作ったものなのか!」

「これは・・・驚きましたな」

「それよりも最初から説明してくだされ。わしには何がなんだか」



一体三人がなんの話をしているのか、何故魏延の乳母に身の証が必要なのか。

焦れて黄忠が問い質すと、まるで幼子が内緒話でもするように劉備が背中を丸めた。

それに合わせて他の三人も小さな輪になり身を縮める。

劉備の声は、訓練中の兵の声でかき消された。






























どうしたものか、とは頭を悩ませていた。

膝の上には大きな頭が一つ、のへその部分に鼻先を埋めている。

寝ころんだ身体に大きな腕は腰に回されて身動きが取れない。



「えーん!そろそろお仕事しなきゃだめなんじゃないの?」

「・・・・・」

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。月英様いい人みたいだし」

「・・・・・」

「それとも南蛮に行くの、嫌なの?」

「・・・・・」



が月英と南蛮へ行くことになったことを報告してからというもの、さっきからずっとこの調子だ。

一言も口を開かず、けれど から離れようとはしない。

何が気に入らないのか、何が嫌なのか、何を考えているのか言葉にしてもらわなくては伝わらない。

普段胸中が態度に出やすい人間が拗ねると想像以上にやっかいだと、は「はぁ」と小さく息を吐いた。



びくり。


そんなのため息にびくりと大きな肩震える。

おそるおそる見上げてくる瞳は、いつかの魏延の言葉を思い出させる。




、怒ル、我、キライ?』




愛を知らない魏延が、ほんの些細なことで怯えてみせた感情。

喧嘩して仲直りして、互いを知り合っていく、それを経て絆は出来ていく。

けれど魏延はそれを知らない、わからない。

のほんの些細な感情の起伏に怯える魏延は、まるで小さな雛のようで。

は身体を折り曲げて、大きな額に”チゥ”をする。




「大丈夫。わたしがついてるから、だから――――」



一緒に南蛮へ行こう、そう言おうとした瞬間、ドタドタと大きな足音が聞こえた。

兵の騒ぐ声がし、魏延が身体を起こしを背に庇うように立ち上がる。

そうしている間に扉が開き、大きな声が室内に響いた。



「魏延、わしも南蛮へ行くぞ!!」

「ジジィ、何故、知ル」

「殿に全て聞いたわい!安心せい、わしがなんとかしてやるわい!!だから””とやらをわしに紹介せい水臭い!どこじゃ!」

「否。、渡サヌ!」

「誰も渡せとは言っておらんじゃろうが!」

「黄忠、見セル。、減ル!」

「減らんわーーーー!!!!お主、わしをなんだと思っておる!!」




魏延の背に隠されているため、黄忠からはが見えない。

それからひと悶着あって、が黄忠と対面できるのはそれからしばらく経ってからだった。