現代人には不思議なものがこの土地にはたくさんある。

例えば、目の前のものも、その一つで。












虎が龍を呼ぶ











の目の前には何やらハリボテがある。

それはこの時代にはいささか不釣り合いなもので。

木の枠組みに虎を模したハリボテの中には歯車のようなものがいくつも見られる。

足の部分には四つの輪っか。前後で二つずつ木の枠で繋がっていて汽車の動輪の仕組みに似ている。


「これ・・・動くのかしら?」



抱えた洗濯物の籠を一度土の上に置いて、じっくりと眺める。

現代人からすればそれは夏休みの工作のような簡素なものだったが、この時代では大したものだろう。

そういえば小学生の時ミニ四駆が流行ったっけ、と虎の頭を撫でていると、背後でじゃり、と土を踏む音がした。



「そこで何をしているのです!!」


甲高い女の厳しい声に、思わず背筋がびっと伸びる。

慌てて振り向くとそこには二十歳前後の綺麗な女性が立っていた。



「申し訳ありません、怪しい者では」

「その姿・・・どこの侍女のものです?」

「魏将軍付きのと申します」



土の上に膝をつき、臣下の礼を取る。

の存在はまだまだ城では認知されていない。

まさか間者として捕えられることはないだろうが、人を人と思わぬ時代だ。

出来るだけ無礼がないようにと、女性の次の言葉を待つ。



「まぁ、では貴方が魏延殿の乳母ですか?」


けれど返ってきた言葉は思ったよりも随分優しいものだった。

頭を上げると、厳しい表情が一転して和らいでいる。


「ええ、そうでございます」

「本当に若く見えますわね、と失礼。虎車に興味がおありで?」



どうやら誰かからあらかじめのことを聞いていたようだ。

態度が軟化したところをみると、とりあえず悪くは言われていないらしい。



「興味というか、懐かしいなと思いまして」

「懐かしい?」


何も考えずに口から出た言葉に首を傾げた女性に、内心ひやりとする。

この時代の最先端技術に対して懐かしいなんて言えば、訝しまれるに決まっている。

どう取り繕おうかと顔を上げると、そこにはきらりと光る女性の笑顔が間近にあった。



「もしかして貴方も発明に興味がおありで!?」

「えぇ!?は、発明・・?・か、からくりなら多少見聞は・・・」

「まぁ!ならばちょっとお話しましょう!実はちょうど誰かに相談したいことがあるのです!」

「相談ですか!?私でよろしかったらお聞きしますが、その、仕事を先に終わらせなければ」

「あら、私としたことが。ごめんなさい。では手が空いたら私の室へ来て頂けますか?」



この発明品の作成者らしきこの女性、どうやら物事に熱中すると周りが見えなくなるタイプの人のようだ。

身につけている衣服からしても身分が上なことが伺える。

お姫様ではないようだが、女性軽視のこの時代に、このように堂々としている女性は珍しい。



「畏まりました。では後ほどお伺いします」

「ええ、待っていますわ」



身分制度が絶対的なこの時代では侍女にもきちんと礼をしてくれる人間はそう何人いない。

蜀という国は君主そのものの人柄が反映しているようだ。皆が温かくて優しい。

だからこそ、エンのことが残念でならないのだけど。

あの女性も、エンに対しては冷たい態度を取るのだろうかと思うと少し胸が痛くなった。


















の城での仕事は魏延の衣食に関する雑用が主だ。

要するに家事となんら変わらない。

洗濯物を干し終わり、珍しく机で仕事をしている魏延の邪魔にならないように横に立つ。




「ねぇ、エン。少し出かけてきてもいい?」

「ウガ?何処二ダ?」

「えっと・・・・」



筆を持った手を止めたエンに何処へ行くのかと聞かれて、はたと気付いた。

あの女性の名前を聞いていないことに。



「えっと、栗色の髪の綺麗な女の人のところなんだけど・・・名前聞くの忘れちゃった」

「クリイロ?」

「うーーんと、虎の形した木のからくり知ってる?それを作った人みたいなんだけど」

「月英、カ?」

「げつえい?」


途端に魏延の声が暗くなる。もしかして、仲の悪い人なのだろうか。


「エン?」


黙ってしまったエンの髪を撫でると、大きな腕で腰を掴まれた。

体格が逆転してからは、引き寄せられて簡単に膝の上に乗せられてしまう。


「諸葛亮ノ妻、ダ」

「!・・・・そうだったの」


魏延が大きな身体を無理矢理丸めて私の胸に顔を押しつける。

ぐりぐりと甘えてくる仕草に、エンの心の傷の深さが覗えて、私は頭を撫でることしか出来ない。

諸葛孔明の妻ならばのことは知っていて当然だ。

もしかしたら部屋に誘われたのは、諸葛亮の指示だったのか。

だとしたら行かない方がいいのだろうか。けれど軍師の妻に逆らえば身の危険にも繋がる。


「とりあえず行ってみるね」

「我モ行ク!」

「それは駄目。仕事終わらせないで来たら、それこそ怒られちゃうでしょう?」


なんたって今魏延が筆を滑らせている書簡が諸葛亮直々に与えられた仕事なのだ。

宥めるように額にキスをすると、うーっとエンが唸る。



「大丈夫。だからイイ子に仕事しててね?」

、スグ帰ル」

「うん、なるべく早く帰ってくるから」


今度はエンの方からペロン、と頬をひと舐め”ちぅ”をもらって。

部屋の場所を聞いて、気合を入れて部屋を飛び出した。





















月英付きの侍女には話が通っていたらしく、すんなりと部屋を通された。

部屋と言ってもまるで書庫のようで辺り一面書簡に埋もれて、足の踏み場もないほどだ。

けれどその中に月英の姿はなく首を傾げると、奥の部屋からガタンゴトンと大きな音がした。





、こちらです」

「失礼致します・・・あの月英様?」



何をやっているのか、と問えば野暮だろうか。

奥の部屋は手前の部屋よりも広くさながら研究所というところだろう。

虎車と呼ばれていたからくりが三つ部屋の中を占拠していて、月英はその一つの車輪の部分に座り込んでいる。




「実は今、虎車の改造をしておりまして」

「はぁ・・・」

「どうしても輪がうまく回らず、平坦な道でしか走れないのです」


どうやら彼女の相談とは車輪部分にあるらしい。

木の枠で作られた車輪は確かに砂利道や障害物には弱いのだろう。

コンクリートの道ならば問題はないだろうが、この時代は砂利道ばかりだ。



「それならば・・・タイヤを付ければいいのでは?」


特に深く考えることなくポツリと呟いた言葉に月英がガバッと顔を上げる。

「たいや!?たいやとはなんですか!?」

「え、えーと・・・ゴムという素材を使ったもので、柔らかくて弾力がありまして、小石やでこぼこした道でもゴムが反発して輪が回る手助けをしてくれるものです」


こんな説明で果たして分かってもらえるのだろうか。

身振り手振りで説明するけれど、全く未知のものを説明するのは思ったよりも難しい。

自分の説明が、というよりも月英の理解力が高かったのか、彼女はしきりにうんうん、と頷きやがて顔を上げた。



「素晴らしいですわ、!!さっそくその案取り入れましょう!それで、その『ごむ』とやらはどこで手に入るのですか!?」

「えーっと・・・熱帯地帯やジャングルにゴムの木がありますので・・・その樹脂を取って固めたものがゴムに、それを輪の形に作ったものがタイヤになるかと」

「熱帯・・・では、南蛮ですね!そういえば魏延殿も南蛮のご出身でしたものね」

「・・・えぇ、そうなんです」



どこでゴムの知識を得たのか問われたらどうしようかと思っていたが、どうやら南蛮の知識であるということで納得してもらえたらしい。

ウキウキとした様子で、南蛮へ行く計画を立てている月英はまるでバーゲン前夜の現代女性のようだ。



「そうだ!どうせならば魏延殿に道案内を頼みましょう!もちろんも来て下さいますわよね?」

「え!?」

「大丈夫ですわ!孔明様には私からお願いしておきます」

「でも、あの、」



諸葛亮の妻と魏延が共に出かける、そんなことは可能なのだろうかと言葉が濁る。

諸葛亮と魏延の関係は常に悪いもので、諸葛亮はことあるごとに魏延を非難していると聞く。

当然その醜聞は妻である月英も聞き及んでいるはずだ。


の懸念を察したのか、月英はにこりと裏表のない笑みを浮かべた。



「孔明様は孔明様、私は私です。孔明様の意見に異を唱えるつもりはありませんが、あくまで私の意思は私の中にあります」

「月英様・・・」

「それにがいますもの」


月英は、の手を取った。

ぎゅっと握られた手は温かく、月英の優しさが伝わってくるようだ。



「え?」

「私は今まで魏延殿とのきちんと向き合って話をしたことはありません。
けれどそれは魏延殿のも同じだと思うのです。彼もまた私を孔明様の妻としか見ていない。
外聞に惑わされることなく互いに向き合うには私達は少し距離を置き過ぎました。
だから、に橋渡しをして欲しいのです。
互いに互いを知って、その上で一人の人間としてどう思うか、どう接していくか判断したいのです」


「月英様、ありがとうございます」



握られた手を握り返し、二人は静かに微笑み合った。









































「―――本当にこれでよろしかったのですか?」

暗い室に冷えた声が響いた。陽は既に落ち、ろうそくの明かりが女の顔を照らす。

「ええ、上出来ですよ。さすがは月英。お見事です」

ゆったりと扇を動かしながら、男はどこか遠くを見る。何を思案しているかなど女には悟りようもない。

「では、準備が整い次第南蛮へ発ちます」

「ええ、くれぐれも気をつけて。報告を楽しみにしていますよ」

「はい、孔明様」


男の扇の風が、ろうそくの火をかき消した。

二つの影は闇に紛れ、真逆の方向へ離れていく。



女は一度だけ振り返り小さく何かを呟いたが、それは誰にも届くことはなかった。