ふと、心臓が止まりそうになる時がある。

それはほんの些細な瞬間。

いつもの日常の中に潜んでいて。


いつもの日常が『いつも』じゃなくなっていく。























チリン、と小さな音が縁側に鳴り響く。

誰が吊るしたのか分からない小さな風鈴。それは風が吹く度に涼しげな音を奏でて聞く者を楽しませる。

けれどもう、夏も終わる。まだまだ残暑が厳しいものの、暦の上ではもう初秋を迎えていて。

夕日に照らされたガラスの風鈴に手を伸ばす。風に揺れながらそれは最後に名残惜しそうにチリリと鳴いて私の手の中に収まった。




「風鈴、外したんですか」

「・・・・山崎君。うん、ちょっと寂しい気がするけど、もう秋だし」

「そうですね。やっと夜も寝苦しくなくなった気がします」



湯を浴びた後なのだろうか。

簡素な着流し姿の山崎はいつもと違い後ろの髪を解いている。

たったそれだけ。それだけなのに、私の胸はトクンといつもと違う動きをする。

この変化はごく最近訪れたもの。原因を作っているのは他でもない目の前のこの男で。



「そ、そうだね」

さん?どうかしましたか?」

「や、別になにも」




胸の鼓動を悟られないように、慌てて首を振る。

目に映るのは自分よりも逞しい肩、大きな手。

身長はさほど変わらないはずなのに、男と女ではどうしてこうも違うのか。

それを知ったのは、あの夜。雨の日に二人で訪れたある宿でのこと。




『俺が年上の男だってことを証明してやろう 』





細身だと思っていた身体。小さいと思っていた背中。

元々は商家の人間だから、自分よりも弱い。試したこともないのにそう思っていた。けれど。




『観念しろ、

着物を脱いだ身体は想像以上に逞しくて、広くて大きな肩幅にしっかりとついた筋肉。

押さえつけられた腕はびくともせず。低く呟かれた声に背中に何かが走った。

いつも見ている礼儀正しい山崎烝じゃなくて、もっと別の、まるで月の裏側みたいに別の男の顔に身体が硬直して。

そう――それはまるで狼のように。鋭い視線に本能が抗えない。逃げなきゃいけないのに身体の力がするすると抜けていく。こんな感覚、私は知らない。


でも本当に驚いたのはそんなことじゃなくて。






「じゃあ、部屋に戻るから」

「それならば、一緒にお邪魔してもいいですか?」

「え!?」

「少しお話が」

「あ、うん・・・わかった」




驚いたのは、そんなことじゃなくて。




「じゃあ行きましょうか、さん」

「う・・うん」



山崎君に抱かれそうになっても、触れられそうになっても、拒むことを考えもしなかった、

自分自身。

















文机以外にはほとんどなにもない私室に通す。

誰の物かも分からない風鈴を割らないようにそっと文机の上に置いて、山崎君に座布団を勧める。

きっちりとその上に正座して座るその礼儀正しさはいつもの彼の姿で正直ほっとする。

自分は畳の上に適当に座ろうとすると、ふいに山崎君の手が私の着物の裾を引いた。




「え?」



座ろうと中途半端な体制だった為に、身体は引き寄せられるまま山崎の身体にぶつかる。

膝と膝がぶつかって、彼はよろめく私の身体を簡単に受け止めると、まるで獲物を閉じ込める檻のように左手を腰に回して、右手で顎を掴まれる。

そして絶対的な意思を持ってすぐ上を向くよう促された。そこには当然山崎の顔があって。






「な、―――えっ?」



混乱する私に対してクッと笑う。こんな顔は知らない。

それはあの言葉通り、大人の男の―――わるい、かお。


「山崎君、あの、」

さん、最近俺のこと避けてますね」



有無を言わさず目を合わせられて、よそ見することを許さない。

確かにあの晩から、山崎の姿をまともに見られなくなった。

姿を見るだけで、その存在を感じるだけで壊れそうなくらい心臓がうるさいのに、まともに顔なんて合わせられるはずがない。



「や、山崎君・・・はなして」

「随分、可愛らしい反応をするな。俺を、意識しているのか?」



その声と共に反転する視界。私の上に馬乗りになって、強引に押さえつけられた身体。

敬語の抜けた口調、まるで飢えた獣のような瞳、それはなにもかもあの夜の再現のようで。



するりとお気に入りの髪紐が解かれる。

乱れた髪に目を細めると、山崎が私の頬を下から上へ舌で撫であげた。



「・・やっ・・・!」


官能を匂わす感覚に、普段は押さえている高い声が反射的に漏れて、思わず目を瞑る。

ここで視界を遮ることは身を守る為には不利だと分かっているのに、身体がうまく動かない。

山崎の舌が耳元で水音を立てる。差し込まれた舌に力が抜けてしまうのは、女の身体の抗えない本能なのだろうか。




「やはり、俺が怖いのか?」


震える私に気付いたのか、耳元に息と共に吹きかけられた言葉に、私は力無く首を振る。


「そんなこと―――ない」

「ならば何故俺のことを避けていた?あの晩のことが、あったからだろう?」




あの晩、結局のところなにもなかった。

少し脅かしただけだと引いてくれて。けれどその時の熱も、体温もまだ身体が覚えている。

それは私だけなのだと思っていた。次の日から顔を合わせても山崎君は平然としていて。

だから再びこんな風にされると、どうしたらいいか分からなくなる。

あの夜覚えた感覚は、錯覚だと思いたいのに。





「俺を警戒するのはいいことだ。だが、他の隊士達にも同じように警戒してもらわねば困る」

「お、おなじって・・・」

「他の連中にも同じように押し倒されなければ分からないか?君が普段、獣の巣にいることを理解できないのなら―――」

「や、やだっ!!山崎君以外なんて!!」




それを想像してゾッとして、目の前の身体に縋りつく。

山崎君だから。山崎君だから、こうして震えながらも、それでも身を任せていられるけれど。

もしこれが他の誰かだったなら。きっと意地でも下から這い出て刀を抜くなり、舌を噛むなりしているに違いない。

山崎烝だから、組み敷かれる屈辱にも耐えられる。その先にあるものを知って尚、思考を保っていられる。



「・・・そんな怖いこと、言わないで・・・っ」



普段男して、武士として生活する上で弱みなど誰にも見せられない。

久し振りに流した涙は止めることが出来ず、しゃくり上げながら山崎の胸に縋りつく。

今彼はどんな顔をしているのだろう。まだあの獣のような眼をしているのか、それとも普段通りの優しい目をしているのか。

確かめたいのに、怖くて目を開けない。







もしまだ、獣のような目をしていたら、



























「や、やだっ!!山崎君以外なんて!!」





そう言って、彼女が俺の身体に縋りつく。目にわかるくらい肩を震わせて涙を流して。

その瞬間、下肢に熱が集まり喉を鳴らした俺は、なんて酷い男なのだろう。

普段凛として男に一歩も引けをとらない彼女をこんなにも怯えさせて、これら全てが思惑通りなのだと知ったら。

いや、思惑以上だ。こんな風に彼女の気持ちが聞けるなんて。俺以外の男は嫌だと確かに彼女はそう言った。


どくりと、心臓が大きく脈を打つ。熱は下肢だけでなく脳までも焼いてしまいそうで、拳を握り締めて自制を試みる。

けれどそれだけでは制御できない本能がチカチカと視界を点滅させて、俺はたまらず彼女の喉元に食いついた。



この女が欲しい、と身体が、心が、訴えている。



優しくしたい、笑って欲しい、その気持ちとは裏腹に身体は彼女を泣かせる為に勝手に動く。

噛みついた喉元から悲鳴のようなか細い声が響いて、身体の震えはより一層ひどくなる。

零れ落ちる涙を止めたくて、でももっと声を上げて泣かせたくて。

矛盾しているとわかっていても、この衝動を止める事が出来ない。




俺は今きっと―――獣のような眼をしているだろう。





















唇が重なり合う。深く、深く。

その震動で転がった風鈴がカシャンッと音を立てて割れた。










風で木々がざわめく。

けれど












風鈴はもうらない












                                   










                         (例え罠に嵌めても俺はを手に入れる)