北条氏政はその時自分の失敗を悟った。








毎朝太陽が顔を出すと同時に目を覚まし、朝稽古をする。

それが氏政の毎朝の日課であり、年老いた今でもそれを欠かしたことは無い。

肉体の衰えは生きる者として致し方ないが、それでも戦とならば若い者に引けを取らぬ自信があった。

息を澄まし、鹿刀槍を振るう。

ふと、ビリっと肌が痛むような気配を感じた。風魔だ。

槍を地面に突き刺し、汗を拭いていると風の如く風魔が現れた。

その腕に、あの娘を抱いて。








「如何したんじゃ」







何か困ったことでもあったのだろうかと声を掛けると、無造作に風魔が娘を地面に落とした。

勿論受身など取れるわけもなく、娘は地面に体を打ち付け倒れた。




「こりゃ!何しとるか!!」



慌てて娘を抱き起こすと、娘は焦点の合わない目で氏政を見た。

声も上げず、ただ氏政を見つめる。

衣服は昨日と変わらず、頬は汚れ、食事を採らせた様子も無かった。

どうやら風魔は本当に娘をただ持ち帰っただけだったらしい。

世話もせず、この分ではおそらく名前すら聞いていないのだろう。

ただただ怯える娘に、氏政はどんなに自分が浅はかだったかを知った。








「すまんのぅ、娘さん。怖がることはない。ワシは北条氏政、この城の主じゃ。
お前さんの名を教えてくれんかの?」




北条は初めて長男が誕生した時のことを思い出しながら、赤子を撫でるようにゆっくりと娘の背中をさすった。

袖で頬の汚れを拭いてやり、髪を撫でる。





「あっ・・・・あっ・・・・」




緊張が取れたのか、正気が戻ったのか娘の喉から嗚咽が洩れ始めた。

ぼろぼろと涙を流しながら、氏政の胸に顔を埋める。





「名前、言えるかの?」

「・・・・・・・

「そうか、か。良き名じゃの」





名前を何度も呼んでやると、娘はますますもって泣いた。

それを氏政は抱きとめ、あやしながら風魔を見た。

風魔は先ほどから微動だにしない。

その風魔の名を呼び手招きをする。






「風魔、に今から湯浴みをさせる。お前も手伝うんじゃ」

「・・・・・・・・・」






を抱き上げると氏政は裏口から城へと入った。

風魔もそれに続く。

風魔に口の堅い女中頭を呼ばせ、湯浴みの用意をさせる。

庭に用意した大きな風呂桶の中のぬるま湯に、娘の履物を脱がせ足を入れてやった。

手拭いをその中で浸して絞り、それを風魔に手渡す。





「風魔、ワシは着替えの用意をしてくる。の手足を拭いてやってくれんかの」

「・・・・・・・・・」

「ほれ、さっさとせい。ぐずぐずしとると湯が水に変わってしまうぞい」





氏政の言葉に明らかな不快感を表した風魔に、氏政は目を細めた。

不快、という感情は怒という感情があって始めて成り立つものだ。

楽は苦がなければ成り立たず、喜は哀が在って始めて生まれる。

感情が無いわけでは決してない。

ただ周囲が、そして自身が感情が無いと思い込んでしまっているのだ。

氏政はそれを確信した。





「丁寧にな、怖がらすんじゃないぞ、優しく拭いてやるんじゃぞ」





心中を風魔に悟られぬよう、注意だけを促し氏政は立ち上がった。

それまで沈黙していたが慌てて、氏政の袖を掴む。

声こそ出さなかったが、風魔と二人残されることに恐怖を感じたのだろう。






「・・・ぁ・・・・」

「大丈夫じゃ、怖がらんでいい。この男はちぃと不器用での」

「・でも・・・・・」

「取って喰いやせん。にどう接したら良いか分からんだけじゃ」

「・・・・・・・・」





氏政がそう言うと明らかに気に喰わないというように、風魔が顔を上げた。

に言った言葉と同時に、風魔にもと同様赤子へするような言い回しをしたことが気に障ったのだろう。

気に喰わない、という感情もまた、人の感情なのだと、氏政は悟られぬようこっそりと口端を上げた。





「さて着替えじゃな。風魔、くれぐれも優しくな」




袖に縋り付いていたの指をゆっくりと解いてやると、その手をそのまま風魔の膝の上に載せた。

風魔がに対してどのような行動を取るか、見守りたい気持ちがあったか、忍んでも風魔相手では気付かれてしまうだろう。

手拭いを持ったまま、微動だにしない風魔とを置いて、氏政は急ぎ部屋を後にした。