の怯えた瞳が、猿飛の心を縛った。 ガシャリっと足元に落ちる愛用の手裏剣。 まるで金縛りにあったかのように腕が動かない。 これは風魔の術なのだろうか、それとも、 俺の心が何かを訴えてるのだろうか。 風魔は石像のように動かなくなった猿飛を置いて、を抱えて再び小屋に戻っていた。 腕の中ではがまるで子供のようにしゃくり声を上げて泣いている。 白く細い手はまるで風魔の肩から流れる血を押し戻そうかとしているように、傷口から離れない。 の手は血まみれで、朱の色が肌を穢していく。 涙と血と白い肌、その相容れない要素が構成する異様な情景にぞくぞくと昂揚している自分に風魔は気づいていた。 ベロ、と舌での涙をその瞼ごと舐めとる。 鋭利な手裏剣の刃で出来た傷は出血量がかなりあったが、止血する気にはならなかった。 まだ、この情景を見ていたい。 己の雄がゆっくりと熱を帯びていくのが分る。 「はやく・・・・血・・・止めて・・・・」 おそらく治療の仕方すら分からないのだろう。 流れる血に怯えながらも懸命にどうにかしようとするはオロオロと風魔を見上げる。 今、まさにこの状態で風魔が劣情を抱いているとは露ほども思っていないに違いない。 『そんなに俺が心配か?』 風魔は音にならない声で問う。 は風魔の口がわずかに動いたことさえ気づかずに傷口を見つめている。 風魔はもうすっかり血の色に染まってしまったその手を左手で掴み取った。 その手を己の心の臓へ持っていく。 そして右手で寝着の襟元に手を入れ、の左胸の乳房をぐっと掴む。 『俺を知りたいとお前は言った。知るがいい。この血に濡れた姿こそが本当の”風魔”』 は怯えていた。その様子に風魔が嗤う。 愛など、所詮奇麗ごとでしかないのだ。 家族愛、兄弟愛、夫婦愛、そのどれもがどれほど脆いものなのか風魔は知っている。 飢えの為に子を捨てる親、兄弟間の権力の奪い合い、欲望の為に妻をも殺す夫、 『お前は俺に隠れて男と会った・・・・・俺もお前の性根を知った』 人の情を知らぬ風魔はそれが嫉妬という情であることに気づいてはいなかった。 ただ裏切られたという思い、怒りが疾風のごとく身体を駆け抜ける。 そして自分がこの状況で劣情を抑えきれず興奮するケダモノだということを知る。 心を通わせての結合ならばそれは人の交わりにもなるか、それがなければ獣の交配に過ぎない。 『俺はお前に惑わされた。その罪を償うがいい』 読唇術など分るはずもないはただ風魔の口元を見つめていた。 何を言っているかわからないというように、泣きながら頭を横に振る。 風魔は一度を放し、すばやく止血の処理を施すと、細い身体を布団の上に押し倒した。 「・・・ふ・・・ま・・・さん・・・・?」 抵抗することも忘れ、ただ風魔を見つめるの唇に血で汚れた己の人差し指を押し当てた。 が何か言おうと口を開いた瞬間、その指を口内に入れる。 『舐めろ』 その短い言葉はさすがに理解出来たのか、は怯えた目で視線を風魔に寄こした。 だが微動だにしない風魔に諦めたのか、ぴちゃり、と生ぬるい舌が風魔の人差し指に絡まる。 血がまずいのか、顔を歪ませながらそれでも懸命には風魔の指を吸った。 『お前は血の味を知らない。だからそんな奇麗事をその唇が紡ぐ』 の口元が、徐々に血の色に染まっていく。 まるで生き血を吸う化け物のようだ。違う、これはケダモノだ。 此処にいるのはケダモノが二匹。 小屋の隙間から陽の光が差し込んできた。 もうすぐ闇が明け、陽の光がを包む。 だが行為を止める気にはならなかった。 の涙が風魔の膝元に零れ落ちる。 それは陽の光を反射してきらきらと輝いた。 風魔には母親の記憶も父親の記憶もない。 覚えているのは闇の中、寒さと飢えに震えながらひたすら逃げ惑った虚ろな記憶のみ。 何から逃げていたのかも覚えていない。狼か、それとも野党か。 なんのために走るのか、その疑問すら持てないほどに幼かった。 もう走れない、そう思い蹲った矢先に耳に響いた羽ばたきの音。 『生きたいか』 突如闇夜に響いた声は恐ろしく、鬼の如く低い唸り。 『ならばこの手を取るがいい。されど行き着く場所もまた地獄』 月を背負い黒い翼を広げた男は、まるで天狗のようだった。 人心を惑わす人ならざぬ者、妖しの術を使い、人を攫い、食い千切る。 月は”風魔”にとって象徴的なものだ。闇の中でのみ唯一生きることが出来る孤独の光。 そして風魔は理解する。 先ほどまでは無月、そして今まさに闇が明けようとしている。 月は”風魔”にとっての象徴、ならば己の象徴は。 ただのつまらぬ男である己の象徴は、月無しの夜、漆黒の闇夜。 この傾きかけた国で、唯一の、”己”だけの時間。 新月の晩は明日の夜までだ。 明後日にはもう上弦の月が顔を出す。 ならば明日で全てが終わる。 この女を喰らって、それで終わりだ。 風魔は嗤った。本当に心の底から初めて風魔は嗤った。 陽の光を浴び、血の色が鮮やかに光を反射する、その中で、 まるで儀式のようにゆっくりと、血と涙に濡れたに口付けをした。 |