近づいてくる気配に、猿飛佐助は手裏剣を構えた。

小田原城を一望できる高い丘の木の上。

先日忍びこんだばかりだというのに、今はこうして堂々と城見物が出来る。

それは即ち北条と武田が無事同盟を組んだことを意味していた。






「さて、何か用かい、風魔の旦那」






手裏剣を両手でくるくると回しながら、背後に迫る気配に話しかける。

隠す風でもないからには、殺しにきたというわけではなさそうだが、それでも穏便な雰囲気でもない。

他にもう一人の気配も同時に感じ、猿飛は音もなく地に降り立った。







「・・・・・・!?」








部下でも連れているのかと思ったが、もう一人は予想外の人物だった。

それも自分の意思でここへ来た訳じゃない。風魔に背負われた格好だ。





「俺になんか用?」




今度は余裕のない声で、猿飛は言った。

風魔の意図が分からない。

つい先ほど結ばれたばかりの同盟はいわば表向きで、実質は北条が武田に下った形となった。

権威ばかりが先立ち、兵力の伴わない北条の実力を考えればそれも妥当だが、解せないのは北条氏政の態度の変化だった。

ご先祖様の威光が、が口癖で同盟を拒んでいた北条の当主は、何故か急に同盟の話を了承したのだ。

猿飛の主である真田は「お館様のお心遣いが通じたのだ!」と単純に喜んでいたが、無論それが要因ではないだろう。

護るものが他に出来た、と言った北条氏政は清々しい顔をしていたが、北条の家臣全てがそれに納得したわけではない。

風魔もその一人なのかと思ったが身を包むその雰囲気と肩に担いだ女を見て、国や同盟のことなど関係ない、そう直感した。





「あんたと喧嘩するつもり、ないんだけどね?」


「・・・・・・・・」





ガチャンっと、風魔が何かを投げつけてきて、猿飛咄嗟に数歩後退した。

それは猿飛が昼間女に渡した笛と貝だった。

女は風魔に責められたのか。だとしたら自分の責任だ。

彼女がどんな立場なのか知る由もないが、風魔の怒気を含んだ気配は殺気の一歩手前。

こちらの出方次第では戦闘になると、猿飛は再び手裏剣を構える。






「確かにそれは俺が彼女にあげたもんだけどさ、彼女、一体なんなのよ?」

「・・・・・・・・・」

「北条の人質?にしちゃあ・・・・・あんたの個人的感情で動いているように見えるけど」






挑発するようにそう言うと、風魔は左手で刀をひと振り構え、右肩に担いでいた女を腕に滑らせた。

寝ているのか気を失っているのか、右手で腰を捉え女の頭を肩に乗せて、そのまま口を吸い、猿飛を一瞥する。





「・・・・!  案外分かりやすい性格してんだね」

「・・・・・・・・・・」





勝ち誇ったように口端を上げる風魔に、猿飛は一歩前へ出る。

女にそれほど興味があったわけじゃない。

同盟を組む上で何か利用出来るものがあれば、と周囲を探っている時にたまたま見つけただけだ。

とてもまともな環境とは思えない境遇でも助けを求めてこなかった女の目には何か深い光があった。

笛と薬をやったのは気まぐれだったが、気に入ったのは確かだ。

彼女には全てを享受するような温かみがある。

それにここまで挑発されては、






「さしもの猿飛佐助の名が廃るってね!」





猿飛が放った手裏剣は風魔の左側面を稲妻のように駆け抜けた。

疾風が吹き、女を再び肩に担ぎ、風魔が右手に避ける。

予測通りの行動に、猿飛は迷わず風魔の右手に周りこんだ。




「いただき!」




風魔が右に飛び、注意が手裏剣に向いた一瞬を捉えて猿飛が女の腕に触れた。

だがそれを奪うことは出来なかった。風魔の放ったクナイが猿飛の頬を掠める。







「さすが伝説の忍ってとこか」





一閃された頬から真っ赤な血が滴る。

ぞくりと肌が粟立ち、けれど恐怖は感じず、逆に高揚するのを猿飛ははっきりと感じた。

修業時代に聞かされた伝説の忍と今まさに対峙しているのだ。

しかも女を巡ってなどと、誰か想像しただろう。







「そういや・・・・名前聞くの忘れたな」






諜報活動としては極当たり前のことを忘れていた自分に、猿飛は苦笑した。

あの時は忍として出会い、調査対象には値しないと考えたのだ。

だが今は一人の男として、彼女の名前を知りたいと思っている。

風魔に挑発されて意識したのがどうにも癪だが、今は彼女を奪うのが先決だ。

女を一人担いでる身なのだから、この戦い明らかに風魔が不利だ。

こちらの殺気を察してか、風魔が身構えた。

だが二刀流の風魔は左手にしか剣を構えてはいない。

やはり狙うなら先ほどと同様、女を担いでいる右側だ。

風魔もそれは心得ているようで、左手の剣を横に水平に構えている。










二人の間につむじ風が巻き起こる。

猿飛がその風に目を細めたその刹那、風魔が消えた。

途端に右肩に鋭い痛みを感じた。風魔の剣が、猿飛の肩を貫いている。

猿飛は素早く左手の手裏剣の刃を風魔の左肩にねじこんだ。





「痛み分けってとこかな」

「・・・・・・・・・」





二つの刃が互いの肩に食い込む。

だが二人は一歩も引かない。じりじりと間合いを詰めれば傷は更に深くなる。

次に聞こえるのはどちらの呻き声か。常闇が血塗れの二人を包む。











「いやぁあああ!!」











だが猿飛の鼓膜に響いたのは、甲高い女の悲鳴だった。

怯えた女の表情に、猿飛の手から手裏剣が滑り落ちた。

闇夜の中で血に濡れた刃がまるで月のように弧を描き鈍く光った。